八幡信仰の発生【2】
豊前国(今の大分県)の宇佐は、畿内と朝鮮半島の中間にあり、双方との接触が早くから行われていた為、大和文化と道教・仏教に融合した朝鮮半島の文化の影響を多く受けた。
それでは八幡神が現れる以前の宇佐の巫女や祭祀集団から八幡神が応神天皇になるまでについて書きます。
峯神の祭祀集団 宇佐国
豊前国宇佐郡には霊山馬城峯(まきみね)=御許山(おもとやま)があり、その山麓に八幡神と関係のない聖地がある。
そこは巫女うさつひめが峯神を「みあれ」(ご来臨)させ、
氏上(うじのかみ)うさつひこが祭祀を行っていた祭祀遺跡の名残ではないかとされ、この峯神の祭祀集団が宇佐国を構成していたと言われる。
新羅国神・北辰神 辛嶋勝乙売
一方、豊前国田川郡香春(かわら)岳には、
新羅国神が勢力を持ち、道教と融合した仏教と習合していて、
その巫女の「辛嶋勝乙売(からしますぐりおとめ)」は宇佐に入り、宇佐・小倉山(現在の宇佐神宮の鎮座地)に北辰(ほくしん)神を造立したという。
北辰神とは、北極星に対する信仰で、天帝の仮現の姿と信じられた。要するに道教の施設かと考えられる。
半島情勢の厳しさと大神比義と八幡神
その後、加羅諸国が新羅によって滅ぼされるといった朝鮮半島情勢が厳しくなると、欽明32年(571年)に巫覡(ふげき/男性の巫者)の「大神比義(おおがのひぎ)」が現れ、宇佐郡鷹居(たかい)の地に八幡神を示現したと伝える。
これらの神を「やはた神」
これらの神が「やはた神」の名で称されるようになり、さらに応神天皇の神格に接近していく。
社殿創建 隼人の乱
和銅5年(712年)令制による社殿創建、
霊亀2年(716年)神託により小山田の地に遷す
養老4年(720年)日向(ひゅうが)・大隅(おおすみ)両国で起きた隼人(はやと)の乱。宇佐宮へ乱の平定を祈る。
その戦乱の殺生滅罪の為に放生会(ほうじょうえ)を始める。
神亀2年(725年)神託により小倉山に社殿(一之御殿)を造営し、日足(ひあし)の地に神宮寺にあたる弥勒禅院を建立す
ほぼ応神天皇を祭神とする八幡信仰の成立
天平3年(731年)はじめて官幣を受け、ほぼ応神天皇を御祭神とする八幡信仰が成立した。
原始八幡と応神八幡
こうした経緯から、
応神天皇を意識しない八幡信仰を「原始八幡信仰」
応神天皇を意識し、又は融合した信仰を「応神八幡信仰」としてきた。
【参考書籍とサイト】
八幡総本宮 宇佐神宮公式サイト
神社検定公式テキスト1級用 神社のいろは要語集 宗教編
八幡の神名由来
八幡神の神名は、「8つの幡となって降臨して日本の神となる」と宣言した外来神が由来とも言われています。
【引用書籍】
日本の神様 起源と物語
…という事です。
道教で8つというと、八卦の乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤のことでしょうかね。