八幡信仰の展開
天平19年(747年)聖武天皇、東大寺大仏造立祈願の勅使を宇佐神宮に派遣。
奈良時代に東大寺の大仏を鋳造する際、宇佐神宮の八幡神から大仏建立の協力をする「託宣」が出たと言います。
そして宇佐神宮が諸神を率いて上京し、大仏建立を守護したのは、「護法善神説(ごほうぜんしんせつ)」という考えによるものです。
護法善神とは、仏法を擁護する神の事であり、元々仏教が古代インドの神々を護法神として位置づけたことにならったものです。
仏教はインドの神々を梵天(ぼんてん)や帝釈天(たいしゃくてん)といった形で取り込んでいきました。
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天平勝宝元年(749年)八幡大神、東大寺大仏を拝するため入京する
それから女帝・孝謙天皇/称徳天皇に寵愛を受けた僧侶・道鏡の皇位簒奪事件においても、和気清麻呂(わけのきよまろ)が宇佐神宮のご神託を聴いて、その野望を阻止した。
以後、八幡神は皇室の守護・国家鎮護の神・託宣の神として有名になった。
その後、宮中と神宮において神仏隔離は徹底されていくことになる。
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斉衡2年(855年)奈良の大仏の頭が落ちる事故があった時も八幡神の助けを願い、託宣があったとか。
平安初期には平安京に石清水八幡宮が創建される。
京の都の王城鎮護の神として八幡神=八幡大菩薩が崇敬された。
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さらに鎌倉時代、清和天皇の嫡流である源氏の氏神として信仰され、源氏の頭領・源 頼義(よりよし)が、石清水八幡宮の分霊を鎌倉に勧請したのが鶴岡八幡宮の始まり。
それ以降、武家の間で八幡神は広く信仰され、各地の荘園にも鎮守神(ちんじゅしん)という、一定の地域を守護する存在として勧請され全国に八幡信仰は広まっていった。
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