神道の霊魂観【2】和魂・荒魂論 | 心の鏡

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天の霊妙不可思議な法則、神道について書いているブログ。心の鏡とは内在神を表し、神社のおみくじの神の教に「神様の御光が我が心の鏡に映るその時、凡ての心の曇り、心の闇は晴れゆきて、広き明き御恵みを授かる事が叶う」とあったところから命名しました。

 

神道の霊魂観【2】和魂・荒魂論

荒魂(あらみたま)については、記紀(古事記・日本書紀)の仲哀天皇朝関係の記事で住吉神に関して見えます。

当ブログ記事ですと、タイトルが応神天皇紀になっていますが、こちらです。

 

 

『出雲国造神賀詞』には大国主神に関して見え、『出雲国風土記』にも荒魂に関する記載があるそうです。

荒魂を祀る神社としては、伊勢の荒祭宮、摂津国の広田神社、長門国の住吉神社などがあります。

 

 本居宣長の和魂・荒魂解説

『古事記伝』巻30の仲哀天皇の段で和魂・荒魂の語義、用例、類似語に関して述べていること。

神の御霊(みたま)が大きく二つに分かれた面を持ちながら一つの御霊であることを、一つの火に例えて解説しています。

一つの火を分散して、燭と薪とに着ければ、どちらにも移って燃えれども、

元の火もまた、滅(きゆ)ることなく、減(へ)る事もなくして、

ありしままなるが如く、

全体の御霊は元の火にして、和魂・荒魂は燭と薪に移しとりたる火の如し、と。

それは人の霊魂も同様であるとしています。

 

 鈴木重胤の哲学的考察と発展

鈴木重胤『延喜式祝詞講義』には神道思想上の見解として注目すべき哲学的考察が窺(うかが)える。

簡単に言うと、荒魂と和魂は善悪や吉凶のことじゃない。

荒魂をもって事を成し、和魂によってそれを守り整えていくことで、事が達成されるとしている。

それを人間界の出来事に関連付け、幸魂・奇魂の働きを理解し、自分のものとするには「神習(かんならい)」こそが必要だ。

神習とは神の意志を重んじ、神の行為に随(したが)うという義で、神道の実践を意味する。惟神の道(かんながらのみち)と同義。

 

 橘守部の荒魂論

荒魂に関して、他とは際立って異なる見解が著書『稜威道別』巻4で書かれている。

簡単に言うと、荒魂は「顕生魂(あらみたま)」として、「本霊(もとつみたま)」から分かれ、新たに顕(あらわ)れた神としている。

そして神功皇后の三韓征伐後、住吉三神の荒魂を長門国にお祀りした例をあげて、新たに顕れた神だからこそ祀ったのであり、そうでなければ、長門国豊浦郡住吉坐荒魂神社、と、そのような延喜式の神名帳記載になるはずがないと述べている。

さらに摂津国の広田神社、伊勢の荒祭宮、大和国の狭井神社の例をあげ、その神より以前に顕れ給うを荒魂と申せること絶えてなしと主張している。

 

 折口信夫『古代研究』

和魂、荒魂について、外来魂の信仰との結びつき、みたまから神への観念的進展などについて詳しい考察を試みている。

 

と、言うように、和魂・荒魂論の展開は、幸魂・奇魂の観念と共に、近世における神学の思想、修練に刺激を与えたのだそうです。

 

それから幸魂・奇魂についても解釈を紹介したいと思いますが、一旦ここで区切らせていただきます。

 

参考書籍