《御神徳》縁切りの神様
前回の縁結びの神様と対照的な「縁切り」の神様ですが、
こちらは神社の神様だけに分けようとしても、その由来に神仏習合時代の出来事が関わっている為、少し仏教やお寺の話も入りますので、その点ご了承ください。
また「悪縁を切り、良縁を結ぶ」という縁結びの御神徳もあります。
安井金比羅宮
(やすいこんぴらぐう)京都市東山区
【御祭神】
大物主神
崇徳天皇(すとくてんのう)
源 頼政公(みなもと よりまさ こう)
とのことですが、
このうち縁切りの神様は「崇徳天皇」で間違いないでしょう。
簡略に書くと、崇徳天皇は皇位継承をめぐって起きた保元の乱(1156年)で敗退し、讃岐に流罪となったが、その地で一切の欲を断ち切り、写経にいそしみ3年かけて五部大乗経を書きあげた。
それを「石清水八幡宮へ奉納したい」と朝廷に申し出たところ、
後白河天皇の側近の信西(しんぜい)が「流刑者の写経を都に入れるなど不吉だ」と反対し天皇も同意した。
これを聞いた崇徳上皇は激高し
「日本国の大魔王となり、皇(すめら)を取って民とし、民を皇とす」と誓ったと言う。(と、本には「誓った」と書いてあるけど私は「呪った」んだろうと思います)
そして大乗経に誓文を血書し、海に沈めたと伝えられる。
長寛2年(1164年) 崇徳上皇 崩御
讃岐の白峰寺(香川県坂出市)に埋葬された。
崇徳天皇の祟りが現れたのは13年後の安元3年(1177年)のことで、後白河天皇の子である第80代高倉天皇の中宮・平徳子の安産祈願に怨霊が現れたという。徳子の父・平清盛は恐れをなして朝廷を通じて崇徳天皇に「崇徳院」の院号を贈った。
安井金比羅宮公式サイトで知るところでは、
そこは元々藤原鎌足が一堂を創建し、藤を植えた藤寺と号して、藤原家門の隆昌と子孫の長久を祈った事に始まりまして、
その後、この藤を好んだ崇徳天皇は寵愛していた阿波内侍(あわのないし)を住まわせられたそうです。
そして阿波内侍は崇徳上皇が崩御後、そこの観音堂に上皇自筆の御尊影をお祀りされたとか。
で、1177年大円法師がお堂におこもりになられた時に、崇徳上皇がお姿を現されて、それを聞いた後白河法皇が、光明院観勝寺というお寺を建立したのが安井金比羅宮の起こりだとか。
やがて起きた源平の争乱も鎌倉の武家政権樹立も崇徳天皇の怨霊がもたらしたと考えられるようになったそうです。
【こんぴらさん】
総本宮は香川県琴平町 金刀比羅宮
大国主命の霊魂である大物主神は本地垂迹説により、
仏教の宮毘羅(クビラ)と同一視され、
宮毘羅はインドのガンジス川に住むワニ(クンビーラ)が由来。海上交通の守護として神格化された。
神仏分離前は金比羅大権現と称されていた。
日本三大縁切稲荷
榎木稲荷神社 (東京都板橋区)
門田稲荷神社(栃木県足利市 下野国一社八幡宮内)
伏見稲荷大社(京都府京都市)
稲荷神社の御祭神は宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ)で渡来系豪族の秦氏が氏神として祀った稲の神、農耕神ですが、
縁切りの御神徳も強いと評判の上記の日本三大縁切稲荷がありますね。
稲荷神は796年の東寺創建とも関わりが深く、その鎮守となったため、真言密教と共に広がってインド伝来のダキニ天と習合して仏教寺院でもお稲荷さんが祀られています。
近くの寺社でも
この他にも稲荷神社や豊川稲荷のようなお寺のお稲荷さんは全国に数多くあるので、お近くの寺社でもお稲荷さんがあれば縁切りの祈願しても良いんじゃないかと思います。
そう言えば、東京の深川不動尊では、お稲荷さんがあって、
「切り札」っていう御札も授与所に掲示されていましたよ。
参考書籍
その他 全部わかる神社ガイド など