陰陽寮の廃止
明治3年(1869年) 陰陽寮が廃止され、陰陽師は土御門家による管轄から外れ、
民間宗教者となっていきます。
それによって公的行事としての陰陽道の祭事は行われなくなりました。
例えば、
《道響(みちあえ)祭》
鬼や疫病などが入って来ることを防ぐために、都の四方の大路の最端の路上で行われた祭り
《鎮火祭》
宮城の四方の隅で行われた火災を防ぐためのお祭り
平安中期以降に、中臣氏が奏上していた大祓詞(中臣祓)を「中臣祭文」として陰陽師が用いるようになっていたことなどです。
修験道の廃止
明治5年(1872年)には、修験道が廃止されます。
修験者たちは天台宗や真言宗の寺院に属するか、還俗して神職や民間の宗教者になっていきました。
無壇無住寺院の廃止
同年、檀家も住職もいない「無壇無住寺院」が廃止されます。
社寺の女人結界の廃止
さらに社寺の女人結界廃止
僧侶の肉食妻帯の解禁
僧侶の肉食妻帯の解禁なども発令されました。
という訳で、日本の宗教界も激変していった訳ですが、
明治政府は江戸時代の土地の所有制も解消を進め、
明治4年「社寺領上知令」により、
社寺の境内を除き、これまで経済的基盤を支えてきた朱印地、黒印地の社寺領や社寺が保有していた田畑・山林などを収公したのです。
この布告は寺院より神社に対して大きな経済的打撃を与えました。