国家神道【1】近代社格制度
天皇を現人神とし神道を国教とする
明治政府は明治3年(1870年)「大教宣布」の詔(みことのり)で
天皇を神と定め、神道を国教とする。
天皇は天孫より続く万世一系で現人神(あらひとがみ)とされました。
これはその後第二次世界大戦での敗戦後に否定され消滅することになりますが、
まずは歴史を追っていきます。
神社は公的な施設に
前回、明治政府は社寺に対し、社寺の境内を除いて、これまで江戸時代からの朱印地・黒印地の社寺領や社寺が保有していた田畑・山林などを収公する「社寺領上知令」を布告し、それは神社に大きな経済的打撃となった話を書きました。
※朱印地・黒印地については、以前当ブログのどこかに書いたかもしれませんが、
江戸時代に幕府が朱印状を発給し安堵した土地を朱印地、
藩が黒印状を発給し安堵した土地を黒印地といい、元から社寺の私有地ではなく公領ではありました。
そして明治4年(1871年)5月、神社は寺院や教会のような宗教施設としてではなく、
国家の宗祀=つまり国と国民が尊ぶべき公的な施設と位置付けられました。
近代社格制度
それにより、これまで世襲されていた神社の祠官社家は一旦職を解かれ、官吏(公務員)に準じ、神職の定員や地位が定められました。
全国の神社は社格によって区分され、大きく官社とそれ以外の諸社に区分されました。
官社は祈年祭・新嘗祭・例祭に
太政官から(明治10年より皇室から)幣帛が奉られる官幣社と、
国庫から奉られる国弊社に分けられ、
それぞれ「大社」「中社」「小社」に分けられました。
官幣大社、国幣大社、官幣中社、国幣中社、官幣小社、国幣小社という分類がされ、
「神宮」はこの制度を越えたものとして位置づけられました。
官幣社は主に二十二社を中心に皇室と関係の深い神社、
国弊社は主に諸国一之宮を中心に地方において崇敬の篤い神社が選定されています。
それ以外の諸社は、府県及び住民が等しく敬うべき府社と県社、
郷・村及び住民が等しく敬うべき郷社と村社
それ以外の無格社に分けられ、地方長官の管轄となりました。
そして無格社を除く諸社は府県などからの幣帛の供進を受けました。
当初、官社として列されたのは97社でしたが、昭和の敗戦時には220社余りの神社が列されていました。
神社祭式制定
明治8年(1875年)には「神社祭式」が制定され、
祈年祭、新嘗祭、例祭に加え、元始祭、先帝山稜遥拝、紀元節、神武天皇稜遥拝、大祓、神嘗祭遥拝などの祭典が官幣・国幣各社で行われることになりました。
また官幣・国幣各社経費の定額が国庫より支出されることになり、
府県社の祠官の給与は国庫から、郷村社祠官の給与は民費(地方税・地方公共施設の維持費)から支出されることとなりました。
こうして「国家の宗祀」としての祭祀と維持管理には国及び共同体が責任をもつ原則が打ち立てられたのです。
靖国神社と別格官幣社
明治2年(1869年)明治維新の内乱に殉じた人々をお祀りする為に、
東京の九段の地に東京招魂社が創建されました。
明治12年(1879年)には、靖國(靖国)神社と改称され、天皇の勅祭にあずかる、国難に殉じた人々を祭る神社として別格官幣社に列せられることになりました。
靖国神社の創建と前後して、歴朝の忠臣を祀る神社が全国に創建されました。
例えば南朝の楠木正成をお祀りする湊川神社(兵庫県)や、
護良親王(もりながしんのう)をお祀りする鎌倉宮(神奈川県)
菊池武時(きくちたけとき)をお祀りする菊池神社(熊本県)などです。
これらの神社も官幣社や別格官幣社として幣帛の供進を受けました。