神仏分離令と廃仏毀釈 | 心の鏡

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天の霊妙不可思議な法則、神道について書いているブログ。心の鏡とは内在神を表し、神社のおみくじの神の教に「神様の御光が我が心の鏡に映るその時、凡ての心の曇り、心の闇は晴れゆきて、広き明き御恵みを授かる事が叶う」とあったところから命名しました。

 

神仏分離令(神仏判然)と廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

 

  神仏分離令あるいは神仏判然

これは本によって「神仏分離令」と書かれている事もあり、私はそう覚えていましたが、『神社のいろは・続』では「神仏判然」と書かれています。

 

明治政府は、慶応4年(1868年)3月、

神社を神祇官に管轄させるという布告を出しました。

これにより、神社と朝廷を取り次いでいた「伝奏」が廃止されます。

次に同月に「神仏判然」が命じられます。

これにより、僧職にある別当と社僧が神社の祭祀に携わる事を禁止し、

大菩薩や権現などの仏教に基づく神号が廃止されました。

その為、引き続き神社の祭祀に携わることを望んだ別当と社僧は還俗(げんぞく)して神職となりました。

 

  廃仏毀釈

 

また、神社と寺院の境内区分も行われ、神社内の仏像や仏塔などの仏教施設を取り除く事が求められました。

これは廃藩置県が行われる前という事もあり、一部の地域によっては混乱をきたし、

政府の通達とは異なり仏像や宮寺を打ち壊すなど過激な廃仏毀釈が行われる地域もありました。

 

 

  藤原鎌足と中大兄皇子ゆかりの寺院だった談山神社

廃仏毀釈で多くの貴重な仏教文化財が失われましたが、

藤原鎌足と中大兄皇子が蘇我入鹿を打倒する為に多武峰(とうのみね)で談合したことに由来する談山神社は、

鎌足の没後、鎌足の長男である僧侶・定慧(じょうえ)が遺体を多武峰に改葬して、十三重の塔を建立し、その東に聖霊院を建て、鎌足の木像を祀ったのが始まりであるそうで、明治時代に神仏分離令が出るまでは「妙楽寺」と呼ばれていました。

神仏分離令で談山神社と改名されたものの、寺院建築のまま現在も遺されています。美しい奈良の談山神社が映っている動画をみつけましたので貼っておきます。JR東海さんありがとうございます。