明治維新と皇室祭祀 | 心の鏡

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天の霊妙不可思議な法則、神道について書いているブログ。心の鏡とは内在神を表し、神社のおみくじの神の教に「神様の御光が我が心の鏡に映るその時、凡ての心の曇り、心の闇は晴れゆきて、広き明き御恵みを授かる事が叶う」とあったところから命名しました。

 

明治維新と皇室祭祀

 これから書く明治維新については、日本史の授業や参考書、Wikiなどで知る事もでき、NHK大河ドラマでも2021年の『青天を衝け!』で取り上げられた時代で記憶に新しかったり、既によくご存じの方も多いと思われますので詳しい事は書きませんが、大まかな時代背景のおさらいとして読んでいただければと考えています。

また学校の授業ではあまり詳しく習わないかもしれないけど神道の歴史には関係がある「神祇省」などについて書きたいと思います。

  王政復古の大号令

慶応3年(1867年)10月、15代将軍・徳川慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出しました。

12月には「王政復古の大号令」が発せられ、「神武創業」の理念に基づいて政治を行う事が謳われました。

これにて260年以上続いた江戸幕府に終止符が打たれました。

この王政復古の大号令の中の「神武天皇の創業の始め」に基づくという文言は、

国学者の大国隆正たちの提言によるものです。

  五箇条の御誓文

翌年4月には、五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)が示されました。

これは第122代・明治天皇が京都御所紫宸殿に出御し、天神地祇に誓われて発布されたもので、明治政府の政治の指針とされました。

 

  江戸が東京に改名

同年7月には江戸が東京と改められ、9月には年号が「明治」となり「一世一元の制」が定められました。

 

  東京遷都じゃなく奠都(てんと)なのは

明治2年(1869年)には、東京奠都(てんと)が行われました。

え?今まで平城京遷都とか「せんと」って言っていたよね?東京に天皇陛下がお遷りで政治の中心の場になったのだから遷都じゃないの?と思いましたが、

奠都とは新たに都を定めることを言い、この時は京都を都として残す形で行われた為、遷都ではなく奠都といい、徐々に政府機関が東京へと移されていったのだとか。

また、同年には諸大名の版籍奉還(版図・領地と戸籍・領民の返還)

明治4年(1871年)には廃藩置県が行われ、中央集権の体制が整えられて行きました。

 

  祭政一致・天皇親政の方針で

政府組織の整備も進められました。

祭政一致・天皇親政の方針から、「大宝令」を参考に、

神祇官と太政官が置かれ、太政官の下には政務を分担する各省を配置する組織となりました。

 

  宮中祭祀

宮中祭祀についても整備されて行きます。

神祇官の神殿に、白川家でお祀りされてきていた「八神」、「天神地祇」、歴代天皇の御霊=「皇霊」が祀られました。

皇霊は中世中期ごろより、京都御所では「お黒戸(おくろど)」というところで私的に女官たちにより仏式でお祀りがされており、白川家でも神式でお祀りしていました。

 

  神祇省改組/歴代天皇の御霊が賢所へ

明治4年(1871年)には、より実質的な祭政一致を目指して神祇官が廃止され、

神祇省に改組されます。

その際に、神祇省にいた国学者の福羽美静(ふくば よししず)たちの建議により、

「皇霊」が宮中の賢所(かしこどころ)に遷座されました。

賢所は宮中で天照大御神をお祀りしていたところで、東京奠都とともに京都御所からお移しされていました。

 

  四時祭典定則(しじさいてんていそく)

同年10月には、宮中で行われる祭典を定めた「四時祭典定則」が定められました。

これにより、皇太神宮遥拝(神嘗祭)と新嘗祭、元始祭、神武天皇祭、先帝祭が、

天皇自らお祀りする天皇親祭の国家大祭として斎行されることになりました。

 

  八神と天神地祇も賢所へ

明治5年(1872年)には八神と天神地祇も賢所に遷座され、天神地祇として祀られることになりました。

現在にも続く宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)の姿が成立したのです。

 

  宮中三殿創建

宮中三殿は明治22年(1889年)に、明治宮殿と共に創建され、

新嘗祭が行われる神嘉殿(しんかでん)も建てられました。

皇霊殿は歴代天皇の御霊を併せ祀る「皇室の御霊舎(みたまや)」として創建され、

孝明天皇の歴代の山稜補修と祭祀復興のご意志を受け継ぐものでもありました。

 

  皇室の恒例祭祀が社会に浸透したのは

皇室の恒例祭祀は、明治6年(1873年)に制定された祝祭日制度によって社会にも浸透していきました。

1月3日 元始祭

1月5日 新年宴会

1月30日 孝明天皇例祭(先帝祭)

2月11日 紀元節(神武天皇即位相当日)

4月3日 神武天皇祭

10月17日 神嘗祭

11月3日 天長節 明治天皇誕生日

11月23日 新嘗祭

が祝祭日とされたのです。

明治11年(1878年)には、春季皇霊祭の春分の日と秋季皇霊祭の秋分の日が加えられました。

 

  全国の学校や各種団体でも式典が行われた

また、元日の朝に天皇が神宮及び四方の神々を遥拝される四方拝と紀元節、天長節は三大節(昭和2年より明治節を加え四大節)とされ、全国の学校や各種団体などで式典などが行われました。

 

  皇室祭祀令

なお、宮中三殿と神嘉殿で行われる恒例祭祀は明治41年(1908年)に公布された

「皇室祭祀令」で法律として定められました。

皇室祭祀令は明治22年(1889年)に大日本帝国憲法と同時に発布された「皇室典範」の下の法律です。

 

…とのことです。

 

私も色々思うところはありますが、私見を述べるのは後回しにして、

次は神仏判別、廃仏毀釈について書いて行こうと思います。それではまた。