幕末/孝明天皇、国家安泰の祈願
嘉永6年(1853年)アメリカの東インド艦隊司令長官・ペリーが4隻の黒船を率いて浦賀沖に現れ、激動の幕末、明治維新を迎えます。
第121代・孝明天皇は、尊王攘夷運動のさなか、国の行く末を深く案じられました。
同時に、国家安泰の為の祭祀を努めて多く行われました。
ペリー来航に際しては、神宮をはじめ全国の32社に対して、国難克服の祈願を命じられました。
安政5年(1858年)の神宮への勅使差遣に際しては、勅使が戻るまでの8日間、毎夜、神宮を遥拝されました。
その時には皇子祐宮(さちのみや/後の明治天皇)が必ず傍らに侍されていた事も知られています。
文久3年(1863年)には、賀茂上下社に行幸され、自ら攘夷祈願を行われています。
また孝明天皇は歴代の天皇陵(山稜)の補修と祭祀の復興も手掛けられています。
山稜については、戦国時代の混乱などで、その所在地が分からなくなっていたものもあり、徳川光圀が山稜の修復を上表したのをはじめ、儒者・蒲生君平によるものなど、いくつかの調査が江戸時代を通じて行われていました。
5代将軍・綱吉や8代将軍・吉宗の時にも暫定的な修補が行われていましたが、
孝明天皇は、民間学者による調査の結果なども踏まえ、
ほとんどの所在を定めて全面修補を実現されると共に祭祀の復興に努められました。
『神社のいろは・続』より引用