平田篤胤の歩みと影響
ネットで検索していたら、2004年に国立歴史民俗博物館で「明治維新と平田国学」展が開催されていて、平田篤胤の生い立ちから明治維新への影響など展示内容を紹介するページがありましたので、こちらにリンクしておきます。
いつも私がお世話になっている『神社のいろは・続』では恋愛関係の話はありませんでしたが、沼津藩士の娘・織瀬との恋もあったんですね。ただ、篤胤は(今は秋田の)佐竹藩を脱藩してきた身寄りの無い流浪人でしかなく…この恋をいかに着実に筋道を実現させていったのかについては、その展覧会で史料展示をしていたらしいことだけが伺えるので、もう今更だけど、ちょっと気になりますね。それで平田家の養子になったのかな?それからロシア語辞書を作っていたのも驚きました。
では、本題に入ります。
気吹舎(いぶきのや)
平田篤胤は気吹舎(いぶきのや)という門人組織を形成しました。
当初、江戸の町人が中心でしたが、篤胤の上総(かずさ)・下総(しもうさ)への旅行をきっかけに、その地方の上層農民を中心に門人を獲得していきます。
吉田家・白川家との関係
また、この頃に吉田家、白川家との関係も生まれてきます。
当時は神職の伝奏を巡って吉田家と白川家は対立していました。
吉田家は垂加神道を導入していた為、なかなか篤胤を受け入れられないでいましたが、上総・下総の神職は次々と篤胤の門人となっていきました。
そして文政6年(1823年)、篤胤は吉田家の学頭となりました。
しかし次第に疎遠となり、代わって天保11年(1840年)には白川家の学頭になりました。
宣長までの国学者は自発的に門人となった神職との関係が中心でしたが、
篤胤は神職に対して積極的に入門を働きかけるとともに、吉田家・白川家との関係も構築していったのです。
当時の神職側からの需要
また、神職側からの需要もありました。
神職たちは「神祇道」を学んで、吉田家などの秘伝・口伝の神道から、
それを学問的に補強する存在としての神道に意欲をもち始めたのです。
上層農民にとっては、篤胤の宗教的な神道を取得し、農民を指導していくことで農村経済を上手く回して行こうとしたとも言われています。
篤胤の没後に増えた門人
しかし江戸幕府に江戸を追放され、天保14年(1843年)に平田篤胤は、追放先の秋田で没しました。
お墓は尊敬する師範、本居宣長の眠る三重県松阪市に向けて建ててくれと遺言に残してあったそうです。これは秋田の観光名所案内のホームページで知りました。
生前の門人の数は500人余りでしたが、その没後には爆発的に増え、1300人を越えます。
さらに気吹舎(いぶきのや)の当主を継承した平田鉄胤(かねたね)の尽力もあり、幕末から維新にかけて飛躍的に門人を獲得していきます。
その中には、信濃・美濃(長野県、岐阜県)を中心に武士たちも多くいました。
門人たちは、各地で神葬祭の復興運動や尊王運動に従事し、維新に際して大きな影響力を持ちました。
その中で大きな動きをした者として、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤を「国学の四大人(こくがくのしうし)」と位置付けた
津和野藩士出身の大国隆正(おおくに たかまさ)や、
篤胤の弟子の矢野玄道(やの はるみち)などがあげられます。