平田篤胤ー死後の霊魂の行方ー

平田篤胤(ひらた あつたね/1776~1843年)は、

秋田藩で武家の四男として生まれました。

19歳の時に脱藩して江戸に出て松山藩士・平田藤兵衛の養子となります。

学問を志していた篤胤は、本居宣長の『古事記伝』に巡り合い、

宣長の没後ではありましたが門人となり、やがて講義も始めるようになりました。

 

  霊能真柱(たまのみはしら)

文化9年(1812年)に著書『霊能真柱(たまのみはしら)』を完成させ、翌年に刊行します。

その内容は死後の霊魂の行方を明らかにするというものでした。

これは前回書いた本居宣長の古事記伝に収蔵されていた宣長の弟子の『三大考』に触発されて書かれたものです。

篤胤は天・地・泉(よみ)から構成される世界の成り立ちを、10の図と文とによって『三大考』よりはるかに詳しく説明しました。

天は太陽、地は地球、黄泉は月に相当し、そこでの神々の系統も書かれていました。

 

  篤胤の霊魂観・死後観 幽冥界

そして人の霊魂は死後、「黄泉の国」・「月」ではなく、

大国主神の治める「幽冥界」に行くと主張したのです。

幽冥界は生きている者には見えないが、幽冥界からは、こちらの様子が伺うことができ、我々は死ぬと幽冥界に行き、子孫や縁者を常に見守り援助しているとしたのです。

これは日本人が古くから持っている素朴な霊魂観を理論化したものともいえるでしょう。

 この篤胤の霊魂観・死後観は、『古事記』の神々の事跡を重視し、

そこに人知を介入させず、その結果、死後の世界に対する観念が淡泊だった

本居宣長の思想に対し、死にまつわる事を明確に打ち出して

宗教性を深めたものということが出来ます。

篤胤の説には賛否両論ありましたが、神葬祭を行う神職にとっては大きな支えとなりました。

 

  異世界との間を往来できる少年を取材する

篤胤は幽冥界の研究を進め、文献資料にあたるだけでなく、当時、天狗の世界との間を往復できる少年として話題になっていた「天狗小僧寅吉」や、

前世の事を覚えている「勝五郎」を取材し、幽冥界説を補強しています。

 

  世界のすべてを神道として意味づけようとする

 

また、記紀の異伝を統一し、それらを古史へ復元することを目的としたのです。

日本を中心とする宇宙観のもと、中国やインドの文献も参考資料として活用し、新たな説を生み出していきました。

このような世界のすべてを神道として意味づけようとする篤胤の研究には、実証的研究方法からは逸脱しているとの指摘もありました。

 

  著書も多かった

著書も多く、『古史成文(こしせいぶん)』や『赤県(もろこし)太古伝』『古道大意』などがあり、大著『古史伝』は篤胤没後、弟子の矢野玄道(はるみち)によって完成されました。

 

…と、『神社のいろは・続』には書いてありましたが、

幽冥界については、ネットで他の方々の解釈文を読むと、

つまり黄泉の国って穢れているところだから、

それまで仏教では死後は極楽や瑠璃などの浄土という苦しみのない美しい清らかな世界に生まれ変わる事もできるとされてきたのに、(念仏唱えたり修行して)

神道・神葬祭を選ぶと、生前の行いの善悪によらず、

みんな死後は穢れた暗い黄泉の国に行くことになるのはイメージが悪かったという見解があって、私は『なるほどなぁ』と思いました。

 

…今日は書店で平田篤胤の『仙境異聞』現代語訳の本を手に入れることが出来ました。ちょうど、この寅吉の詳しい話で、巻末に図が49も載っていまして、かなりの文章量があり、面白そうです。