第19代允恭(いんぎょう)天皇/氏姓を正す | 心の鏡

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天の霊妙不可思議な法則、神道について書いているブログ。心の鏡とは内在神を表し、神社のおみくじの神の教に「神様の御光が我が心の鏡に映るその時、凡ての心の曇り、心の闇は晴れゆきて、広き明き御恵みを授かる事が叶う」とあったところから命名しました。

歯が立派だった反正(はんぜい)天皇の次は、允恭(いんぎょう)天皇です。

允恭天皇は重病だったので、即位をためらいましたが、妃が強く要請した事で皇位につきました。

そして新羅から良医が来て病は快癒しました。

 

4年(415年)

その後、国内では争いにより姓(かばね)を失ったり、高い氏(うじ)を詐称して、氏姓(うじかばね)が元で国が乱れてきました。

そこで今の奈良県明日香村あたりで「盟神探湯(くがたち)」を行って正しました。

 

以前にも八幡様の応神天皇の段で、武内宿禰がその弟に謀反を企んでいると密告され、どちらのいう事が本当か?確かめるのに湯に手を入れ火傷したほうが嘘つきという神の審判をうける「探湯(くがたち)」という占いが出てきましたが、それと同じだそうです。

 

7年

 天皇は皇后の大中姫(おおなかつひめ)の妹・衣通郎姫(そとおしのいらつめ)というその麗しさが衣を通って光った為この名が付いたという女性を召しますが、

皇后は妬んで自殺を図りました。

それで天皇は皇后を憚(はばか)り、口実を見つけて衣通郎姫の元に通います。

 

…って、妹の方は我慢したんじゃないのか、皇后が死にそうになっても。

 

23年

皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)は、同母妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)に通じ、(近親相姦のことですね)

皇女は伊予に流されてしまいました。

 

そして允恭天皇は崩御しました。

 

以上 允恭天皇紀でした。

 

ここで氏姓について改めて説明文を引用します

「氏」は同じ先祖を持つ集団が名乗る共通の名前

「姓」は地位を表す名称で、本来は朝廷から賜るものです。