允恭(いんぎょう)天皇が崩御され、
皇太子だった木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)は、実妹と通じていた醜聞によって人望を失い、穴穂皇子(あなほのみこ)と皇位を争う事になりました。
その結果、皇太子が負けて自決し、穴穂皇子が安康天皇として即位しますが、
讒言によって天皇に殺された大草香皇子(おおくさかのみこ)の子・眉輪王(まゆわのおおきみ)に殺されてしまいました。
以上、第20代・安康天皇紀でした。
という訳で、今回、話が短いので
15代応神天皇から、ここまでを振り返ってみましょう。
15代・応神天皇(八幡様)の崩御後から皇位継承を辞退した皇太子が最終的に自殺した。
自殺した皇太子から皇位を譲られた16代・仁徳天皇
民の困窮を知り3年課役を免除し、国を豊かにして民に聖帝(ひじりのみかど)として讃えられたが、
異母妹を妃に召すことを皇后に賛同を得ようとして拒絶され、
皇后は引きこもられて亡くなる。
その16代・仁徳天皇の子供が
17代・履中天皇、18代・反正天皇、19代・允恭天皇
履中天皇は即位前に婚約者を実の弟に犯され、謀反を企てられ、弟を誅殺する。
反正天皇は歯が立派で天下泰平
允恭天皇は重病で天皇即位をためらうほどだったけど、妃の強い要望で即位。
病気は治り、妃が皇后になってから、その皇后の実妹を召して、皇后は自殺を図った。
それなのに允恭天皇は完全に諦めるでもなく、その後も皇后の目を憚って皇后の妹の元へ通う。
そうして生まれた皇子・皇女ら世代、その次の世代の事が、今回の話に繋がっています。
そしてさらに血を血で洗うような酷い事になっていくのです。