通学手段は渡し船 | 美里山倶楽部

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 今日は「こどもの日」なので、その昔、美里山倶楽部が高校生のころの話をしてみます。
 
 高校生って子供なのか?びっくり
 ってなことは置いておきます。
 
 高校二年から卒業するまでは富山県高岡市に住んでいました。
 通学方法は、この地図のようなんですね。
 当時の自宅は高岡市といっても新湊市(今の射水市)に接していて、小矢部川と庄川に挟まれた州のようなところにありました。
 
 春から秋にかけての晴れた日には自転車で自宅がある「1.吉久」~「2.中伏木」まで行って「3.伏木」までは渡し船に自転車ごと乗って「5.高校」に着くわけで、普通の高校生と何ら通学方法は変わりません。

 しかし、雨が強い時や台風、冬の大雪の時などは自転車が使えないために、「1.吉久」~「2.中伏木」までは加越能鉄道(今の万葉線)を使って行きます。

(画像は全て当時のモノではなくて2004年に富山を訪れた際にビデオで撮ったものですので荒れ気味ですけど絵がないと面白くないので参考まで)

 

 「2.中伏木」は加越能鉄道の他に会社線が入っていてD35 1と D35 2の2両のディーゼル機関車が、高校生をじゃまするように貨車の入れ替えをしていて、踏切がなかなか開きませんでしたね。

(運転士から見れば、「高校生、じゃまだ!警報器無視するな!ムキー」ってこと)

 

 渡し船は、15分おきに来ました。2004年になると対岸で手を上げるとやってくる方式になっていました。

 
 「2.中伏木」では乗客を乗せるとすぐに折り返します。岸から船を離すときは二人がかり。
 
 港に泊まっていたのは多分ロシア船。伏木港は戦後、ソビエトとの貿易が盛んになり、私が通った高校では貿易科が1クラスあってロシア語を習っていました。
 
 残念ながら、この「如意の渡し」は港を横断する橋が架かりまして見ることが出来なくなりました。
 
 「3.伏木」からは氷見線に乗り、「4.越中国分」まで一駅乗ります。雨ぐらいなら「3.伏木」から歩いても良いけど、大雪では高校に着くまでに40分くらいかかるので列車を使いました。
 
 2004年当時はキハ40。
 高校時代は、キハユニ26を真ん中にキハ23やキハ45が連結されていました。
 
 「4.越中国分」からは小高い丘にある高校までは5分くらい。
 天気が良ければ、海の向こうに立山連峰が望め絶景でした。
 
 ここの高校は戦前からの教師がたくさんいて、とても戦後教育とは言えない環境。
 
 ある授業風景びっくり
「いいか!真珠湾攻撃は決して奇襲ではなく、正々堂々戦ったんだ!」
なんてまだいいほう笑い泣き
 
「美里山倶楽部クン、今年は何年か知っているか?」
「1976年です」
「バカもの!今年は皇紀2636年だぞ」
「・・・」
 
 いやぁ、こんな影響で美里山倶楽部クンは戦前と戦後の教育がゴッチャになっていることがあります。
 
 ちなみに今年は皇紀2681年なのであと19年で皇紀2700年。
 
 盛大にお祝いしなくっちゃ爆  笑
 


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