今日は「みどりの日」。
昨日は、新潟色で昭和50年~60年頃にタイムシフト。
GWにユックリ見てくれている人も多いので、今日はもっと以前、昭和39年の新潟を見てもらって「災害はいつでも自分にふりかかる」ということを少しだけでも感じてもらえればと思います。
昭和39年6月16日 午後1時2分、新潟は大地震に襲われました。
当時5歳だった美里山倶楽部はそのとき幼稚園で昼休みだったとさ。
(白黒の画像は当時の記録本から借りてます)
これは、当時の新潟駅2番線です。グリーン帯巻いている客車を含め全体が波打っています。2番線という優等列車発着のホーム、車両はスハ43系に見えますので急行列車なのでしょう。
記録によると1.5mの段差が出来たそうです。
お隣、白新線の白山駅。県庁がある官庁街の駅は、もはや再起不能かといわれるくらい、壊れまくりました。
左上に人がいるのはそんな中でも、県職の方はお仕事に向かっている様子。公務員のことをとやかく言う人も昨今多いですが、ほとんどの方はインフラを復興させるために震災直後から働いていたんですね。
線路がゆがんだ様子を見るならこの画像。
液状化の影響ですごいもんです。道路は、津波で水被ったままなので、まだ凸凹(でこぼこ)の線路を歩いた方が安全だったなんて信じられますか?
車両の方はこちら。最新型気動車のキハ58が編成ごと線路から弾き飛ばされています。どれだけの横揺れだったのか・・・。
これは、跨線橋が落下してキユニ??を押しつぶしています。
このおかげで、跨線橋が全落下せずに人が渡ることが出来たと記録では言っていますが、令和の時代なら「こんな危ないところ人を通すな!」って炎上するでしょう。
私は、どうしていたのか?
幼稚園は、先の白山駅の近く、古町という所にあって、そこから津波で胸まで水に浸かりながら「山の下」という当時住んでいた所へ、迎えに来た近所のお母さん達と10人くらいで5kmくらい歩いて帰りましたとさ。
(ちょっと考えて見ると、幼稚園が実父母以外の方に園児を預けて「じゃ、お願いします」って令和の時代じゃありえない)
このように、5歳にして災害をもろに浴びた美里山倶楽部は、「災害はいつでも自分にふりかかる」ことを知ってしまったので、以後60年近く経ちますが、家は災害を受けにくい立地条件に拘るのはもちろん、日頃の備えは出来うる限りやってます。
堅い話はここまで。
跨線橋に潰された列車はキハ10系なのは分かるんです。
で、手持ちの車両を置いてみたけど連結面が運転席。
しかし、キユニ17は片運転台だし、窓配置が反対にしてもどうも違う??
あの写真を見て分かる人いますか?
最後は、何の脈絡もなくキハユニ26。無理矢理こじつければ、気動車-荷物車繋がり
キハユニ26を真ん中に挟んだ画像のような編成が通学時の氷見線で走っていました(ハイ、話はもう富山県高岡市に飛んでますよ)。
客車の〇〇ユニ系は基本的に車端に繋ぎますね。でも気動車では氷見線に限らず、車中に組み込んで走る所を見たことがあります。
一説によると、新聞などを降ろして運ぶとき、車両の中程の方が駅員または、お店の店員さんが楽だからそうです。
※追記
Manicさんより情報をいただき、潰れた車両はキハユニ17 2と分かりました