私たちは

なにがしらかの繋がりの中でどんな人もくらしていると思います。

それをおおざっぱに「共同体」と呼んでみようと思います。

 

家族

子どもの学校の父兄

仕事の同僚

自分が所属する趣味やサークルの友達

 

何かの目的のために人が複数集まる場を

共同体と呼んでみます。

 

共同体において

私が一番大事にしたい声は

「一番傷ついている声」

です。

 

人が複数集まって何かを行うとき

大なり小なり、共同体で起こる問題が出てきます。

それと向き合うときに

私たちの内側で

癒されていない何かも動きます。

そして最も大きく揺れる傷を持つ人は

その問題の中で苦しい思いをすることがあります。

時に怒ったり、誰かを責めたり、自分を責めて行き場をなくしてしまったりするかもしれません。

一見そのような人は

共同体においてとても非合理で

皆のいら立ちのもとになるかも知れませんが

私がこれまで経験したことを見てみると

そのような人が、今いる共同体を前進させてくれる存在になる

ということがよくあります。

 

つまり

共同体において乗り越えるべき課題を

その人が痛みを持って代弁してくれているということがよくあるのです。

 

障がいを持つ人たちが集まる共同体ではどうでしょうか。

とても重い重度の障がいを持つ方がいらっしゃるとします。

その方が、とてもいごごこちよく

一日を皆と過ごすために

とてもたくさんの条件を満たさなければいけないとします。

視覚的な刺激を少なくする

一人になれるスペースを確保する

音の刺激を遮断する

その方が落ち着くことのできる触覚刺激を満たすものを用意する(砂袋やクッションやタオルケット、時にはお人形のようなもの)

その方にあったふさわしい仕事も観察をしながら用意する必要もあるでしょう

その方がさまざまな条件を満たした上で居心地よく感じられるなら

その方は孤立することなく共同体の中に存在することができます。

その時、別のことが達成されます。

その方のために整えた上記のような環境が

その方以外の方にとっても居心地のよいものになるということが

起こるのです。

もっとも重い障害を持つ方をとおして

私たちはとても多くのものを与えられるということが起こります。

 

もっとも重い障害を持つ方のために用意する仕事は

私たちの観察する目をやしないます

そしてそれがほんとうにその方にとってふさわしいものであったとき

その方は安らかな落ち着きを取り戻していきます。

そして障害性までもがなくなってしまったかのような振る舞いになっていきます。

私たちはその方からかけがえのない何かを受け取ります。

 

もっとも重い障がいを持つ方のために整えられた環境は

視覚刺激

音の刺激

触覚の刺激

全てにおいて

他の障がいを持つ方にとっても過度な刺激とならずに

心安らいでいくということもまた起こります。

つまり共同体全体が癒されていくのです。

 

私は今子育てに専念しているので

娘のクラスで色んなことをみんなで話し合います

もっとも小さきものの声は子どもたちです

そしてそれを受けて大人も揺れ動きます

人の心は右から左へと大きく揺れるのです

私たちは知らないうちに揺れることへの恐れを抱くようになってしまったけれど

そこに大事なものが隠されているのだと思えるのです

 

揺れている人の声は

とても大切なことを気づかせてくれるもの

そして共同体にとって前に進むために必要な気づきなのだと

思えてくるんです。

だから、その声に耳を澄ますということを

私はやっていきたいなって思っています。