今思い出すと、彼は本当に、一度外に出たら、なかなか帰ってこない人でした。
新婚旅行に行ったヨーロッパの旅行先がまずそうでした。昼観た街並みに飽き足らず、その夜の様相に興味を抱き、深夜に街を歩き回り、帰ってきたのは午前3時過ぎ。
メーカーの技術者だった彼は、結婚してからも、一度研究に没頭するととことんまでやらないと気がすまないのか、夕飯に一旦帰宅して仮眠をとり、また会社に行き、明け方に帰ってくる人でした。
逝ってしまう半年前くらいに、信州に旅行に行ったときもそう。帰りに大雨にあい、山梨と神奈川の県境の川で通行止めがあって、車が大渋滞して全然動かなかったときのこと。
なぜ、通行止めであるのかが分かったのかと言えば、小雨になり始めたとき、夫が渋滞の先頭で何があるか突き止めに行ったからです。そのときも3時間近く帰らず、心配に心配を重ね、自分がどうにかなりそうでした。
行ってしまうと、本当にぱたっと行方が途絶えてしまう人で、生きているのか死んでいるのか、まるでシュレディンガーの猫みたいな人でした。
とくに最後の旅のときは、まさに冥界をさまよっていたんじゃないかと思ったくらい、彼には漠とした感じがありました。
今でもこうして彼のことを書いていると、どこかいるような気すらするから不思議です。
語りはそれについて語られている当のもの自身のほうから「見えるようにさせる」。(M.ハイデッガー『存在と時間』、原佑・渡邊二郎訳、中公クラッシックス)
ハイデッガーは、「語りにおいてそれについて『語られて』いる当のものをあらわなしめる」とも言っている。つまり、語りとは、語られているものと語るものの重なりのうちに出てくるものだということです。
語るものと語られるものの重なりから、ことばは生まれくる。詩などもそうでしょう。
語りにおいては、語るものと語られるものが重なっているのだから、語りにおいて、誰が語るとかいう主語はありません。語りとは「誰が」という次元のことではないのです。
イタコの語りなども、同様ではないでしょうか。グリーフケアの分かち合いの場でも、その語りに、会ったこともない故人の姿が現れたような感覚に陥ることがあります。
こうして夫の話を文字にすると、なんだか夫が苦笑しているような気がします。