帰ろう

 

御無沙汰しています。早いもので、もう11月なのですね。

 

母のことで、実家を飛行機で月2のペースで往復して、なおかつ、自分の用事もすませなくてはならなくて。心から休める間もなかったのだけど、そして、しばらくはそうなりそうだけど、とりあえず、母が独居型のホームに行くことになって、これから先のことが、少しは見えてきたかな、というところです。

 

ただ、実家を空家にするわけにはいかず、実家は自分が住むことに。母は、長年住んだ家に執着はないみたいだけど、自分が亡くなって、弟がいずれ帰ってくるまでは管理してほしいようで、それは私も同じ。

 

でも、横浜に住んで30年になるから、ロスもかなりある。夫に連れてこられ、夫が亡くなった後も住み続けた街。引っ越しもしたけど、結婚生活を支え、そして夫の喪失を支えてくれたのも、この横浜の地。様々な深い思いが、この地にはある。

 

それでも、もう決めたことだから、潔く帰ろうと思っている。帰る準備も往復しながら、双方の家の断捨離をしながらしなければならないから、しばらくは大変だけど。

 

「帰ろう」。藤井風くんというシンガーソングライターの存在を知ったのは、恥ずかしながら、ほんの最近。「きらり」はサビの部分しか知らなかったけど、全部聞いて、久しぶりにワクワクしました。新しいけど懐かしい。他の曲も、と聴いて「帰ろう」を耳にしたとき、不意に涙がこぼれてきた。

 

この詩のすごいところは、生者と死者が自分のなかで交錯し合いながら、ことばが紡がれているところ。最初は、生者が他者で死者は自分という設定だけれども、自他に固定せず、死者に生者にと自由に行き来しながら、時流を超えて、ことばが重ねられていく。

 

此岸と彼岸のあわいにあって生者も死者もつつみこむ優しさが、この詩にはある。

 

すぐれた詩のことばは、そのことばが、作者の下から羽ばたいて普遍化していく。この詩は生きているもののみならず、死者の思いも掬い取っている。だからこそ、不意に涙が流れたんだと思う。

 

憎みあいの果てに何が生まれるの わたし わたしが先に 忘れよう

 

このことばで、亡くなった夫も生きている私も、すくわれたように思った。

 

死という無を見つめた先にあるのは、

あぁ今日からどう生きてこう

これがこの詩の最後のことば。これを聞いたとき、ハイデガーのこのことばが浮かんだ。

 

死は、現存在が存在するやいなや、現存在が引き受ける一つの存在する仕方なのである。 

(M.ハイデガー著『存在と時間』、原佑・渡邊二郎訳、中公クラシックス)

 

また、時間ができて気が向いたら、ブログを書きます。