6年前からグリーフケアのボランティアに携わっていますが、春から少し活動の幅が増えてきました。今週も、いろいろとありました。

 

ただ、ボランティアに行きながら、私もまたその場があったから、今までやってこれたのかなというのがあります。

 

それというのも、そこが私にとっての、唯一のリアルな場だから。

 

これから、また、何らかの講師業に携わることも出てくるだろうし、もちろん、仕事も充実感が得られる場だろうし、そこでの人間関係も、得るものは大きいと思う。

 

今までだって、留学生相手の日本語講師をしてきて、生徒自身は基本的に可愛かったし、教えられることも多々あったし、得難い経験もしてきた。

 

でも、グリーフケアでは、何か自分の奥底の深遠なものに触れて、そこですーっと皆がつながれているような感覚を覚えるときがある。

 

もちろん、そのような感覚を覚える場というのは、人によって様々だと思う。私にとっては、たまたまそこがそういう場だったということです。

 

 人間の内の自然の光という存在的に比喩的な言い方は、人間というこの存在者がおのれの現であるという在り方において存在しているという、この存在者の実存論的・存在論的な構造以外の何ものをも意味してはいない。この存在者が「照明されて」いるとは、おのれ自身に即して世界内存在として明るくされているということ、つまり、他の存在者によって明るくされているのではなく、おのれ自身が明るみであるというふうに明るくされているということ、このことにほかならない。・・・「現存在はおのれの開示性である」。(M.ハイデッガー『存在と時間Ⅱ』、原佑・渡邊二郎訳、中公クラッシクス)

 

おのれ自身の明るみをハイデッガーは「開(あ)け」ともいうのですが、グリーフケアの場とは、自分の内に生じた「開(あ)け」であり、そこからすべてが開かれる場なのだと思う。

 

夫が亡くなったとき、これから共に生きるであろう未来が、虫食いの状態になってしまった。それは埋めようもない未来だった。

 

だが、そこに溜った悲しみが、自分を心の深みにまで連れて行ってくれたのだろうか。

 

もちろん、そこには一人では行けない。何か示してくれるものがあって、導かれるようにして、深みにまで行けたのだと思う。

 

出会い方は人それぞれだろうけど、やはり、悲しみとともに、導く何かはあるように思う。

 

3年前くらいに、ある夢を見た。それはバスの後部座席に座って、山奥を夫と二人で旅を(多分)している夢だった。

 

灰色の空に、時折星が流れ、まるで、絵画のようなシーンだった。

 

それは、今まで夫と行った旅の中で、一番のお気に入りの旅。

 

もともと、根拠のない「何とかなるさ」気質だけれども、その夢の光景が、自分を照らしてくれて、支えてくれているように思う。

 

ずっと自分のなかで一緒に旅をしているんだよね。きっと。