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さびしいときの哲学

大切なひとを失った方、一人ぼっちで寂しいと思う方へのメッセージ

夫が亡くなったとき、自分が本当に一人になったという感覚があった。それくらい、夫は私にとって、心の拠り所になっていたのだと思う。

 

そのときに、自分のそういう心情に、哲学や禅の観点から、その後も余韻が残るような沁みる一言を投げかけてくれる先生がいた。

 

その先生は他大学の教授で、ゼミの教授の大学時代の同期なのだが、大学のサバティカル制度で(大学教員が長期休暇をとって海外に行ったりなどして研究を深めるための制度)、ゼミの教授が1年休暇をとったときに、代用として教授が依頼して院ゼミで1年教えていただいたのが縁で、折々に、哲学に関することでメールのやり取りをしていた。

 

ラテン語もギリシャ語もドイツ語もフランス語も、もちろん英語も堪能で、西洋哲学はもちろんのこと、仏教にもキリスト教にも中国哲学にもインド哲学にも精通していて、その論理の隙のなさは感嘆するばかりで、どんな疑問にも唸るばかりの視点から返される。だけれども、それに対しての意見もきちんと掬い取って聴いてくれ、その人の考えが活きるような示唆(サジェッション)をしてくれるし、読んだらいい本も教えてくれる。それだけでなく、とても人間的な部分もあって、結構気を許して話ができる方である。

 

夫が亡くなったときも、とても心配していただき、話をお聴きしますとおっしゃってくださったおかげで、その先生にはありのままの事実を話すことができた。自然にその事実を受け入れて聴いていただいたように思う。

 

新宿の喫茶店で話を聴いていただき、その帰り際に、私が一人ぼっちになったことを感じるというようなことを言ったのだと思う。それに対して、その先生が「一人というのは一人じゃないんです」とノーブルな顔立ちで優しげに微笑んで言われたのが、ずーっと心に残っていて、その都度、わかったようでわかっていないという感じだった。

 

頭ではわかっていても、心の底からはわかっていない感じだった。

 

最近、「唯一人となったときは普遍(全)とつながったとき」と、ふと腑に落ちた。鈴木大拙の「超個の個」も、そして西田幾多郎が「若し、更に大なる意識体系の中軸として考えて見れば、此の大なる体系が自己であり、その発展が自己の意志実現である」というときの「更に大なる意識体系」と意志実現する個人。「更に大なる意識体系」を西田は「大なる超個人的意志」としている。

 

藤井風は、「花」で、シンプルにこう書いている。

「誰もが一人、全ては一つ」

 

「私」は一人、ただこの世で唯一の一人。顔を上げて、このありのままの、それでも自責の念を捨てきれない素裸の自分が天を仰ぎみたとき、不思議と幸せな気持ちを感じた。

 

一人は一人じゃない。