世界の外(2) | さびしいときの哲学

さびしいときの哲学

大切なひとを失った方、一人ぼっちで寂しいと思う方へのメッセージ

夕焼

黒姫山と妙高山の間に日はしずむ

その時みかん色の雲が

すうっとわたしの目の前を通る

一日の出来ごとをのせて雲は動く

わたしが学校で勉強していたのは

見ているだろうか

 

これは、上田閑照が『場所―二重世界内存在』のなかで引用した当時長野県野尻湖小学校4年生だった小学生の詩です。なぜ、この詩が紹介されたのでしょうか。

 

今このとき「すうっと目の前を通る」みかん色の雲。それは「一日の出来ごとをのせて」動く雲であり、過去に「わたしが学校で勉強して いた」のを見ている雲でもあります。その雲はもはや「わたし」が見ているだけの雲ではない。一日中様々なことがあって夕方になって「わたし」が雲を見ている。その「一日の出来ごとをのせて」動く雲である。雲を見ていることまで含んでの一日の出来事の世界(これを仮に「世界A」としよう)をもう一つ包んだ世界(これを仮に「世界B」としよう)の具体性としての雲である。そして世界Aの内での「わたし」、「学校で勉強していたわたし」が今や雲から見られる。即ち世界Aは世界Bに「於いてある」。

     (上田閑照著『場所-二重世界内存在-』、弘文堂)

 

こうした二重世界的な在り方は、子どもだからこそ直接に感じ取られるけれども、大人になると、このような詩の世界に住むことは珍しいことになるだろう、と上田閑照は書いています。それは、忙しくて時間がないだけでなく、そもそも雲に関心がなくなるからだと。

 

わたしたちは、世間や社会という世界のなかで物事を見ようとしがちです。

 

けれども、生老病死や愛苦別離の悲哀や対立葛藤矛盾などの苦しみ等々の実存的限界状況は、世界の内にある自分の在り方を問うきっかけになるとも上田閑照は書いています。

 

世界の外にあって世界を包んでいるもう一つの世界。それは生命の根源に通ずる世界ではないかと思います。自然(詩では「雲」ですが)に拠りながら、ゆったりとした流れのなかにいて、騒々しい世界を眺めている。詩を書いた子どもは「一日の出来ごとをのせて動く」雲に乗っている、いやもしかしたら、雲そのものになっているのかもしれません。

 

自然と自分が重なるとき。それは疎外ではなく、自分の生を考え直す固有の時間ときっかけを与えられたということなのだと思います。

 

でも、わたしたちは、自分が生きていく騒々しい世界に帰っていくわけです。そこがわたしたちが生きて生活していく場だから。

 

ただ、世界を包むもう一つの世界の存在を知ったのです。

 

露の世は露の世ながらさりながら         小林一茶

 

小林一茶が、幼い我が子を亡くしたときの句です。この世は、はかないものであることを俯瞰しつつも、やはり現実はつらい。どうすることもできないこの現実と生のはかなさを受け入れて生きようとする覚悟が、この句にはあるように思います。