地下鉄の電車の扉が空いて、雑踏が目に入った途端、急に世界が空々しく感じて、無表情になった自分がそこにいた。
夫が亡くなって、久しぶりに街に出かけたときに感じたことです。そのときのことは、はっきりと覚えています。
まるで外から世界を眺めているかのようでした。それと共に、自分の隣が空虚な空間になってしまったことを、ひしひしと感じました。
この20年間、夫婦として世界に関わってきたからでしょうか。
アメリカの心理学者で精神分析家のロバート・ストトロウもまた、仕事のパートナーでもあった最愛の妻が、ある朝目覚めたら亡くなっていて、その後の疎外と孤立の感情をこう書いています。
その学会で、全てのパネリストのための夕食会が開かれ た。そして、彼らの多くは私の昔からのよき友人であり、
親密 な研究者であった。だが、その宴席を見渡してみても、彼らがみんなよそ者であるように思われたのだ。より厳密に言うならば、私自身のほうがよそものであり、別世界の存在であ る―この世の人でない―かのように感じたのだ。
(ロバート・ストトロウ著 和田秀樹訳『トラウマの精神分
析』、 岩崎学術出版社)
けれども、それは孤立しているということなのでしょうか。このとき、世界の外からこの世を眺める立場にいるとは言えないでしょうか。
家族や社会的立場という在り方は、世間という枠組みによって維持されてきました。でも、その在り方がこわれたとき、世間という枠組みを外れて改めて、自分を見直すきっかけにもなるのではないでしょうか。
つまり、もっと大きな枠組みで自分を考えるきっかけになるということです。
自然の一部としての自分。夫が亡くなったとき、とても自然と親和性をもった自分を感じました。
そのときに、もっと大きなものが自分を包んでいるのを感じました。
一人だけど、一人じゃない。一人になってはじめて知るつながりでした。