8月29日(水)

今日で18日目。日にちを数える事を忘れようとしても、やはりカリフォルニアからの迎えが来てくれる事を考えてしまう。どうしてこんなに遅れているのか?今日も一日が終わろうとしている。イーサンに連絡しようと思うが、電話の調子が悪くて通じない。他の囚人も電話が繋がらないらしく怒りで受話器を壁にぶつけている。時々そのせいで電話が壊れているのではないかと思った。飛行機で帰れなくてもいい。バスでもなんでもいいから、早くここから連れ出してほしいと思った。

毎日何もすることも無いし、通じないとは分かっていたが僕は何度も電話をかけた。するとやっと電話の回線が繋がる音にたどり着き、イーサンと電話が繋がった。彼の話ではもう既にフェデックスで弁護士の連絡先や他の書類をこちらへ送ってくれたらしい。保釈金も用意してあるし、仮釈放の手続きもしてあるので、カリフォルニアに戻り次第釈放されるとの事だった。

それにありがたい事に、いつでもこちらから電話がかけられるように50ドルの電話代を振り込んでくれたので、問題なく電話が使えるようになった。いつトランスポーターが来るのかは分からないが、明日初めて弁護士に連絡が出来る事になった。この話を聞いて、ようやく今の状況が変わり始めてきたように感じた。

今の僕にはどうする事も出来ない。神様にすべて任せないといけない。その夜に参加したの聖書勉強会でみんなも前向きで笑顔があり、とてもいい感じだった。何があろうと感謝の気持ちだけを忘れないようにとお互いに確かめ合い、いつものお祈りで終わった。僕は自分の部屋に戻ると寝る前にジョージに一通の手紙を書いた。


隣人へ感謝の手紙

ジョージへ、

いつトランスポーターが僕を迎えに来るか分からない。ちゃんと面と向かって 『ありがとう』 と言えないかもしれないので、手紙で僕の感謝の気持ちを伝えておきたいと思う。

あなたにはとてもお世話になりました。腹が空いている僕にあなたは食べ物を与えてくれた。僕がこの日記を残したいと言った時、ノートとペンも貸してくれた。僕が寂しがっている時は話し相手になってくれた。そして不安な時あなたは必ず僕の側で励ましの言葉をくれた。あなたは僕の恩人です。あなたを見習って僕はこれから困っている人がいたら助けたいと思います。あなたが聖書の教えで 『善い隣人』 の話をしてくれた事をハッキリ覚えています。傷をおって死にかけていた人を自分の様に愛し、助ける話だった。僕にとってその隣人は、ジョージ、あなたでした。


我々がよく 『ラスト・サムライ』 という映画の話をしたのを覚えていますか?映画の中で全く違う国の兵士達、渡辺健とトム・クルーズはサムライの歴史や文化、アメリカでのインディアンの話などでよく会話しながら友情を深めていった。僕もここからカリフォルニアに向かえばあなたとの会話を懐かしく思うだろう。僕は必ずあなたと近い将来、再び笑いながら会話が出来る事を信じている。その時はお互い家族や友人と一緒に会おうじゃないか。そんな日が来ることをとても楽しみにしている。僕達の友情をいつまでも宝として大切にしていきたい。

ありがとう。

佐藤健司


隣人から返事の手紙

8月30日(木)

今朝イーサンがから弁護士の連絡先などが入った書類が届いた。早速弁護士に電話をしたが彼女は事務所には居なかった。また明日連絡するとメッセージを残した。明日迎えが来なければ、イーサンが言ったように来週か再来週には来るのだろう。寝る前にジョージは僕の手紙の返事を渡してくれた。

私の友達健司へ、

手紙ありがとう。

人生には人と人が一つの場所で出合い、助け合って生きている。私も過去に違う人から助けてもらった。健司を助けたのもただそれを受け継いでいるだけなんだよ。健司の感謝は有り難いと思っている。だけど、気にしないで。

いつの日か健司がここから出て、君は違う方向へ進んで行くだろう。君と私がいつも語り合ったこのテーブルで私は聖書を読みながら一人ぼっちなるかもしれない。しかし私には神様や自分を信じてくれている家族がいつも側にいてくれるから寂しくはないよ。

君と遭えた事は本当によかったと思う。いつの日か君と日本で会いたい。その日が来るまで君はこの貴重な体験を人に話すんだ。私のようなスマートな黒人と会った事とかね。(笑)出来事には必ず理由がある。君はこの体験を将来日本で誰かに語るだろう。もしかするとその誰かは日本の総理大臣になる人物かもしれない。そして、その人は将来アメリカ大統領と会い、この不公平なアメリカ社会で囚人が人間的に扱われてない、刑務所のシステムを変えてくれるかもしれない。私の言っている事は大胆で馬鹿げた事かも知れないが、不可能な事ではないという事を君に分かってほしい。』 

ありがとう。

ジョージ

折りたたまれた手紙の上にはこう書かれていた。

“If you fall, your friend can help you up. But if you fall without having a friend near by, you’ll be in trouble.” ECCLESIATES 4:10 

『どちらが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。』 伝道者の書 4:10

$バードダディーのブログ-letter from George
8月28日(火)

今日でとうとう16日目だ。予定でいうと今日までに向かいが来るはずだが、その気配は全くない。半分諦めかけていた僕は自分の過去を振り返った。

僕は昭和49年(1974)8月5日にホンジュラスで生まれた。僕の父親は外交官として中南米勤務が多かった為、息子の僕は自分の意思とは関係なく小さな頃から様々な国に付いて行くしかなかった。6才の時はコスタリカで日本人学校に行き、7才になるとニカラグアでアメリカンスクールに通った。一番印象が深かったのは1982年に起きたニカラグアの内戦だった。今でも頭の中に焼き付いている。女性や子供までが殺されたニュース、銃を持たさる少年達、路上で走る軍のトラックや戦車、防空壕を掘る現地の人々、近所で射撃練習の銃撃音など、8才だった僕はベットの下にもぐりたい位に怖い毎日が続いた。そして内戦は悪化し、最終的に父を残して母親と僕は日本に帰国。久しぶりの日本だった。日本は中南米と比べられないほど豊かで平和な国だった。何もかも奇麗だし、道で歩いていても怖くない。お金をねだる人もいなかった。

しかし、こんな平和な環境の中、思いもしなかった壁に僕はブチあたる。それは当時日本で問題になっていた 『いじめ』 だった。僕は近所にある市立小学校に体験入学。その頃の日本は国際化されてなく帰国子女も少なく僕は珍しがられた。僕は担任の先生からクラスの前でみんなに紹介された。

『皆さん、新しいお友達の佐藤・健司君です。お父さんの仕事の関係で中南米のニカラグアという国から最近日本に帰国してきました。』

『ニカラグア?どこそこ?アフリカ?』

面白半分に笑う生徒達もいてクラス中が騒がしくなった。

そして、初日から上級生に呼び出され、下校時間には

『外人、帰れ~! 外人、帰れ~!』

と自転車に乗りながら石を投げては逃げる男子達もいた。

『同じ日本人なのに。』

と悲しく残念に思うしかなかった。後から聞いた話しでは当時学校側も帰国子女を受け入れる自信がなかったそうだ。この問題から転校を考え、両親は外務省の知り合いから帰国子女を多く受け持つ私立の慶明学園を紹介してもらい、小学校3年生の3学期に転入が決まった。片道1時間、小学生にとっては電車とバスでの長い通学だったが、大自然にあるキリスト教の学校はとても明るく見えた。慶明にはアメリカを初め、世界各国から来た帰国生や外国人の先生までいた。一般の生徒もいたが、『外人』 といってからかう人間は一人もいなかった。むしろ、僕が生まれた国やこれまで住んだ国の事について興味向かい生徒たちだった。

『ニカラグア?ってどんな国なの?すごいな~。有り難うってスペイン語でどういうの?』

僕は国際学級で2年間の遅れを取り戻す為、必死に日本語を勉強した。『帰国子女』 だから特別扱いされたくはなかったし、前の学校でいじめられた事が悔しく思っていた。学校から帰ると毎晩のように国語と漢字のドリルを開き、母親か当時大学生だった兄に勉強を見てもらった。そして6年生に入ると普通学級に入れてもらい、みんなと同じレベルの教科書を開く事はとても嬉しかった。

しかし、その嬉しさは2年間しか続かなかった。小学校卒業後、中学一年生という楽しい学生生活や部活などで日々を過ごしていたが、再び父の転勤で今度は南米のウルグアイに行く事を耳にする。ウルグアイは日本国から飛行機で36時間かかり、地球の反対側にあった。日本人の人口は少なく、日本人学校も日本食店もない。今度は8年ぶりのスペイン語とアメリカンスクールで使う英語についていかなければいけなかった。14才、僕は精神的に人と話す事が怖くなっていた。語学力がいらないスポーツと美術で友達を作ったが日本の友達と先生がとても恋しかった。そんな思いで1年8ヶ月、少しずつ慣れて来た僕は友達を作って行くが、再び父親の転勤でスペイン領土のカナリア諸島に移動。そして、その島でアメリカンスクールに入るが授業は遥かに難しかった。得に英語の能力が必要にする、生物、歴史、英語学についていけなかった。僕はESL(ENGLISH AS SECOND LANGUAGE) の生徒だが全科目の授業を受けなければならなかった。

他の生徒は将来どの大学に行くか、どのような仕事につきたいかなど進路を真剣に考えていたが、僕には毎日一科目の宿題が終わればいい方だった。

しかし、唯一学校で誰よりも負けなかったのは体育の時間と美術のクラスだった。そんな僕は体育大学か美術大学に行きたかったが両親は反対だった。なぜなら、姉は清泉女子大で兄は慶応大学だったので、名のある大学に両親は行かせたかった。そして、体育や美術などでは将来がないと心配だったらしい。

中途半端な英語力と中学2年生以来日本語に手を付けてない僕には日本の名が知られた大学に入るのは難しかった。一流の大学に入るにはハードルが高く見えた。スペインで高校を卒業し日本に帰国。受験勉強するが受けた大学には入れなかった。そんな時サンフランシスコにある美術大学から願書付きの郵便が届いた。高校2年生の時、全ヨーロッパのしおりコンクールで一等をとった事を覚えている。リクエストもしていないのに大学の方から郵便がくるなんて僕はうれしかった。しかし、父は反対した。彼は僕が日本の大学に入れないからって優しい道を選択していると言う。

『美大なんて、将来腹すかして道で絵を売る人生を送りたいかい?』

しかし、僕は大学が送って来た資料を見ると科目の一番最初のリストに目が止まった。

『ADVERTISING AND DEISGN』

コマーシャルや雑誌広告のデザインを作る楽しそうな職業だと思った。

『これだ!』

僕の決意は決まった。何もかも自分の意志で行動出来なかった自分はいつも不満だらけだった。そして、親を説得し、一年後アメリカに渡り美術大学で広告デザインを専攻し、必死に勉強した。アメリカ人の3倍は勉強した。立派な人間として世の中から認められたいという願望だけが僕を前進させた。結果さえ出せれば家族からも認められると思いながら頑張った。

そして、4年後、憧れていた大手広告代理店、マッキャンエリクソンにアートディレクターとして就職することが出来た。夢のようだった。僕はこの会社に入る事ならなんでもする覚悟だった。よく学生の頃、時間があれば毎日この会社のビルの前に来てはいつかここで働ける事を願い続けた。そして就職が決まった後、このニュースが大学のキャンパスに広がった。大学からは僕の努力が認められ構内新聞にも載り、ゲストスピーカーとして講演をしたりした。会社では思う存分働いた。毎朝、仕事に行くのが楽しみで前の夜は眠れなかった。会社では英語以外に日本語やスペイン語の広告のプロジェクトも任され、色々な面で役に立てたのでとてもやりがいがあった。ルーキーであった僕のアイディアやデザインが次々と社内で知られるようになった。

しかし、一年後、アメリカ経済が悪化し僕はリストラされた。

『実力がないからリストラされたのだ。』

父親からの厳しい言葉は今でも忘れられない。悔しかった。本当に悔しかった。しかし僕は家族の助けなどには頼らず必死に次の仕事を探した。その結果、小さな広告代理店に就職することが出来たが、一日19時間の労働を休みなしの週7日間働いたが、外国人だった僕は使われるだけで会社から自分の努力が認められなかった。

『どうして僕だけが?』

自分は可哀想と思いがちになり、この不公平な社会や人間関係を憎んだ。なんとか他のアメリカ人に負けたくないと、色々な嘘をつきながら自分のプライドを守って来た自分が好きになれなかった。なに不自由なく幸せに暮らしている人達や、苦労もなさそうに涼しい顔をして成功している人達が羨ましいと思い、そう思う自分に腹を立て、そんな気持ちを紛らわせるために酒の量が増えていった。その結果いつの間にかにお酒を飲まずには仕事が出来ない体になってしまいながら4年が経った。心身ともに疲れきっていた僕はどう頑張っても空回りするだけで力が出てこなくなってしまっていた。

『畜生!』

悔しい気持ちだけがこみ上げるが体に限界が来ていた。会社の中でも僕がいなければ会社は成り立たないと錯覚を見るようになっていた。そして僕はゆっくりと自滅していった。

僕はとうとう過労で会社を辞め、負けを認めたくはなくすぐに自分の会社を立ち上げた。社長として今度こそ家族や世間から認められると思ったが、家族からは

『馬鹿な真似はしないで日本に帰って来なさい』

と言われるだけだった。会社の経営状態は苦しかったがなんとかやりくりしていた。しかし社長とおだてる友達に格好良く見られたい一身でやっとの思いで稼いだ金を平気にバラまいていた。金銭的にギリギリだった現実と将来への恐怖から逃げる為、酒に飲まれる毎日が続いた。酔っ払えば苦しい気持ちから一時的だけ逃げられた。酒さえあればいつでもかっこいい自分でいられたがそれも一つの幻覚に過ぎなかった。そして誰もが弱い自分の正体には気付かなかった。これまで頑張って来た努力が水の泡なのかと思うと、もう全てがどうでもよくなり、無意識に自分を大切に思わなくなっていた。光の裏には影があると言うが僕には光など全く無く、無限に広がる暗闇しかなかった。

そして今拘置所という場所で自分の過去をこのような場所で冷静に見直す時間をお与えになった神様に感謝しなければいけないと思った。冷たいどん底と暗闇から2週間半、やっと明かりが見えて来た気がした。一日一日を大切に生きていこうと思った。
8月27日(月)

拘置所生活、約2週間後にようやく状況に変化が見えて来た。それは初めて義理の兄の友人、イーサンと言うアメリカ人と電話で会話をする事が出来た。彼も偶然サンフランシスコに住んでいて、僕の為に弁護士を探してくれた人だった。

彼にもいつ僕の迎えが来るのか分らないらしいが彼はこう僕に言った。

『法律上、彼らは君を90日以内にシスコまで移さないといけないから心配ない。』

『え?心配ないって。。。3ヶ月間はここから出られないという事ですか?』

『その可能性はあるがそれはあくまで最悪の話だ。』

『。。。』 崖から突き落とされた感じがした。

『もしもし?健司?もしもし?』

『もう耐えられません。今ここから出る事は出来ないのですか?!お願いします!』

『気持ちは分かるよ。逮捕状はカリフォルニアから出ているから仮釈放も健司がカリフォルニアまで戻らないと何も出来ないんだよ。私もこのアメリカの政府のやり方には賛成出来ない。ジェールシステムに厳しく、死刑に大賛成するブッシュ政権のやり方は汚い。』

『。。。』

『明日君の弁護士の情報をFedexで送るよ。彼女の名前はステファニー*ジョーンズだ。保釈金も健司のご両親が現金十万ドル、 およそ一千萬円用意してあるからカリフォルニアに戻り次第すぐに仮釈放出来るようになっている。資料には弁護士事務所の連絡先も書いてあるからそれが届いたらステファニーに電話して欲しい。彼女は君からの連絡を待っているよ。』

『。。。分かりました。。。有り難うございます。』

『あ、そうだ。これはとても重要だからしっかり聞いて欲しい。君の弁護士以外の人間には誰にも何も話してはいけない。 君には黙秘権があるから警察に質問されても何も話しては行けない。下手に何か警察に言う君の身が危ない。』

『え?危ない?警察が僕に?』

『この会話も録音されているだろう。だから今は説明出来ない。ただ健司の件にとっては友人にも家族にも話さないで欲しい。いいかい、君の弁護士だけだ。幸運を祈るよ。他に何かあれば連絡してくれ。』

そして時間切れで通話が切れた。今回の電話回線はやけに遠く聞こえた。

僕は『警察を信用してはいけない。』という意味がはっきりと分からなかった。警察が悪い組織の様に語ったイーサンの話についてジョージに聞いてみた。

そしてジョージは目を大きくし笑いながら、僕に言った。

『いいか、そのイーサンという人が言っている事はすごく正しい。信用出来るのは健司の弁護士だけだ。弁護士以外、誰にも話してはいけない。本当なら私にも話しては行けないんだよ。いいか健司、特に警察というのは甘い言葉で誘惑してお前が話した事を勝ってに録音し、法廷で検事が優位になるように編集して使われるんだ。以前私にこんな事があった。ある警察官が助けてあげるからと私にジュースをさしだして事件についていくつかの質問をしてきた。何も疑わずに私は正直に質問に答えていたんだけどその警官は法廷の時に現れて録音した私の発言を編集し、いかにも私が嘘をついている悪魔の様に裁判官や皆の前で私を指をさしたんだ。人間は色々な解釈をするので下手な事は言えないんだよ。』

『しかし、どうしてそんな事をわざわざ警察が?』

『健司は子供の様に純粋なんだな。』

『。。。』

『金だよ。うまく行けば彼らの面子もいいからな。誰だっていいんだよ。正義なんかじゃない。金だ。多くの人を裁ければ裁くほどジェールにとっても金になる。例えばこのジェールは俺ら一人一人に一日政府からいくら税金をもらっていると思う?一日一人$200ドルだ。俺らのセクションだけで40人だから一日8千ドルだ。この階で200人だから4万ドルだ。全階あわせると12万ドルだ。それから高い電話代、安い食事。飯を作るのは囚人だから人権費はいらない。インスタントラーメンも定価の3倍で売りつけている。これがアメリカで当たり前のように行われている汚いジェールビジネスシステムだ。』

『。。。』

『健司の保釈金だって結構な額なんだろう?』

『十万ドルと言ってました。』

『うあ、高いな。それだって健司がカリフォルニアに戻って仮釈放されてから攻めて一年間は判決が出るまでは法廷通いだ。その一年間その額を警察が銀行に預けたら結構な金儲けになるよな。』

『そうですね。』

僕はショックだった。世間を知らないすぎるという事はこの事なのだろうか。僕は念の為ジョージにイーサンの連絡先を教えた。もし突然僕に向えが来た時電話でイーサンにその事を知らせることが出来ないと思い、代わりに伝えてくれるようにお願いをした。彼は喜んで引き受けてくれた。

今日誰かと話せて本当に嬉しかった。なぜなら先週の金曜日から誰からの連絡もなく、いつ僕の今の状況が改善されるのかも分からないまま、常に不安な気持ちを持ち続けているのは本当に苦しかった。しかし、これで少し気持ちが軽くなったが僕にはもう一つ大きな心配ごとが残っていた。それは父の病気の事だった。一千万円という大金を用意してくれた父親の心臓に影響はないだろうか。

僕のそんな気持ちが分かっているかのようにジョージは僕に励ました。

『必ず大丈夫だからさ。物事はなる様になるよ。健司は頭が良い。何かを失っても必ずそれを取り返すさ。例えばお前が穴の中に落ち、健司に土を落とすとするだろう。するとお前は必ず這い上がろうとするよ。そんな簡単に人間はくたばらないよ。』

『。。。』

『どうした?まだ心配なのか?何を心配している?』

『僕の父親の事も心配なのです。父は心臓が弱く僕の事を聞いて容態が悪化しないかとすごく心配なのです。』

『その気持ち、よく分かるよ。妻が妊娠した時彼女の母親はカンカンに怒っていた。俺みたいな黒人がその子の父親だからな。認めてもらうのに大変だったよ。特に日本人は保守的だからね。仕方がないよ。だけど子供の顔を見た瞬間、義母はとても喜んだ。そして俺の事も家族として許してくれたんだよ。日本人とはそういうものさ。だから健司の家族も同じさ。大丈夫だよ。』

『。。。』

『今の事だけを考えろ。過去に起きてしまった事は変えられない。過去の事を心配しても何も始まらない。今を生きろ。一日一日を生きるんだ。心配するのは壁にぶつかってからにしろ。人は壁にぶつかり、その壁を乗り越えれば必ず成長する。』 

ジョージの自身に満ちあふれる顔は今でも忘れない。