
ようやく、いくらか、きもち、じゃっかん涼しくなった気がします。
でも今日、外出から帰ってきたときなど、上半身は汗ばんでいた。もっとも酷暑日のようにビショビショからは解放されたようだが。
先日は墓参りにも行ってきた。
暑いなか、出席者もおどろくほど少なかった。
みんな歳をとったということもあるが、やっぱり暑さのせいでパスっていうのもあるなぁ。尋常じゃないもの、今年の夏は。
ツレが途中で花を買ったのでついて行ったら、花屋の店先にかなりの数の供花が新聞に包まれてバケツの中に立っていた。
新聞かぁ。なにかとても懐かしかった。最近あまり見なかったので。
昔(いつだ)は包装紙の定番だった。八百屋でも乾物屋でも焼き芋屋でも、なんなら揚げ物やだって新聞紙につつんで渡してくれた。
そんなバケツの中で佇立する供花のひとつに目がとまった。
花ではなく包んでいた新聞にだ。
第一面らしく、大きな活字(じゃないよね今は)で「雄さん死去」と読めた。まるめてあるのでその前も後もわからない。
訃報であることは間違いない。あれほどの大きな文字で報道するのはそれ相当の人物だろう。たとえば総理大臣経験者の政治家とか、国民的知名度のある人物とか。
一瞬「今日のことか」と錯覚したが、今日の新聞を包装につかうことはまずない、おそらく古新聞だろう。と思い至った。
「雄」は「お」、それとも「ゆう」?。
最近亡くなった方で誰かいたかな。脳内メモリを回転しても出てこない(遅いから)。
誰だろう誰だろうという思いを巡らせながら墓参へむかった次第。
さてと。今日は彼岸の歌をとも思ったが、小さく感動したあの古新聞が心に残ったので「新聞」の歌をいくつか聴いてみたい。
古新聞の歌というのはあまり聞かないが「新聞の歌」はいくつか知っている。
古いところでは昭和40年(1965)に小さくヒットした山田太郎の「新聞少年」。
片親で病気がちの母親のために新聞配達をする健気な少年をうたったもの。当時は新聞少年や牛乳少年はめずらしくなかった。山口百恵さんもそうだったんじゃなかったかな。
わたしは経験がないが、小学時代少し年上の見知らぬお姉さんが新聞配達をしている後を何度かついて行ったことがあった。いまでいえばストーカーだけど、二、三回でやめた。朝起きるのが辛くて。
アメリカのトラディショナルソングに似たような歌がある。
「新聞売りのジミー少年」JIMMY BROWN NEWSBOY で、やはり片親の母のために毎朝新聞を配る健気な男の子のことをうたったもの。朝の通勤時に裸足で街を駆けまわって新聞を売るというスタイルが日本とは違う。
山田太郎くんはでっかい夢をもっているようだが、ジミー少年の夢は天国でも新聞を配りたいとうことらしい。
本場ではビル・モンローで知られており、日本ではジミー時田がレパートリーにしていた。
70年代になると井上陽水の「傘がない」(1972)に♪今朝来た新聞の片隅に書いていた とある。なにが書いてあったのかというと♪都会では自殺する 若者がふえている ということだが、当時そんな実感はなかった。歌は好きだったけど。
反対に時代を反映していた「新聞の歌」もあった。
1973年に友部正人がうたった「ストライキ」。
当時頻発して通勤者を悩ませた国鉄(現在のJR)のストライキをうたったもの。当時ストライキは国鉄だけでなく多くの企業や会社で行われるごく普通の生活権のかかった労働運動だった。それが現在は皆無ではないがほとんど聞かない。組合、労働者が弱体化したのかあるいは賢明?になったのか。
友部正人はは御茶ノ水駅で国電のストライキに遭遇し、渋谷で待っている彼女のもとへいけないでいる。イライラした乗客が駅員につかみかかったり。たしかに当時よくみられた光景である。そんないつ来るかわからない電車を待つ群衆に紛れて友部は、僕(ら)が待っているのは電車じゃないような気がする、と詩人らしい感性でうたっている。
友部正人はどこか新聞に思い入れがあるようで、「大阪へやって来た」(阪神のことばかり書くスポーツ新聞)や「公園のベンチで」(国電のなかで拾った新聞)に新聞というフレーズが出てくる。
なぜか「ストライキ」がYOU-TUBEに見つからなかったので「公園のベンチで」を。
ほかにも吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」や小川順子の「夜の訪問者」にも小道具として新聞が出てくる歌はある。
カントリーでもスタットラー・ブラザーズの「日曜日の朝刊」YOUR PICTURE IN THE PAPER という歌がある。
これはある日曜日ソファで朝刊を拡げると昔の彼女のブライダル写真が載っていたというはじまりの歌。その美しさ懐かしさに思わず涙がこぼれ、幸せになってほしいと願って終る。昔のアメリカのローカル紙では市井の人たちの結婚式や葬式の記事&写真はめずらしくなかったようだ。
例によって長くなりすぎたのでそろそろ。
以上の「新聞の歌」は古新聞とはいいがたいが、最後の一曲は間違いなく「古新聞の歌」。
駐留軍の余韻の残る1960年代。当時横須賀などのキャンプ地近辺には多くのアメリカ人が住んでいた。そんなひとりの金髪お姉さん・ステラと少年との思い出をうたったのが柳ジョージの「青い瞳のステラ―1962年夏」(1980)。
ステラが少年にあげたキャンディ。それを包んだのが古新聞(むかしは英字新聞なんていってた)。アメリカでもそんな習慣が? なんて思いもあるけど。映画のワンシーンのように映像が浮き上がってくる。当時も今もフェヴァリットソング。
墓参りの帰り道、ずっと供花をつつんだ古新聞の大見出しのことがきになっていた。
しかしやはりメモリが重たくなっているのか検索結果が出てこなかった。もしかしたら古新聞は古新聞でもたとえば10年、20年以上のものなのか。
夕食後、パソコンの前で仕事の残りをこなしているとき脳内の検索ウインドに突如文字が表示された。「長嶋茂雄さん死去」と。
情けない。三カ月とちょっと以前のことをもう忘れてしまっている。去る人日々に疎しとはいうけれど。そんなものなのかな。
生前は華のある人だったから、花を包むのにはふさわしいのかもしれない。

橋幸夫さんが亡くなった。数日前テレビで訃報を聞いた。
つい最近認知症であることが公表されたが、それから間を置かず亡くなるとは。「認知症10年」という言葉もあり、症状がでると当然心身に影響を及ぼし、やがて寝たきりになって10年くらいで亡くなるということだが私の母もそうだった。橋さんの場合は早すぎた。もっと以前から認知症の状態であったのだろうか。
西郷輝彦、舟木一夫とともに一時代を築いた歌手で、吉田正・佐伯孝夫による楽曲が多い(全盛時はほとんど)ということもありデビューからよく聴いていた。日本が豊かになりはじめ、その限界など見えず「永遠の坂道」を登りはじめた頃の歌手であり歌だった。
その数多あるヒット曲の中から我的3曲を選んで聴いてみた。
昭和35年7月「潮来笠」でデビューして、その3ヵ月後3枚目のシングルとしてリリースしたのが「おけさ唄えば」。
曲・詞はデビュー曲と同じ吉田正・佐伯孝夫のコンビ。
市川雷蔵が主演した股旅物の同名映画主題歌。
また、日米安保条約が自動延長されたのがこの年の6月。死者まで出した大激突も潮が引くように終焉してしまった。「潮来笠」はその「ヤレヤレ」感に日本人の好きなニヒリズムを添加したような歌だったが、「おけさ唄えば」は昭和30年代に入って全盛を極めやがてピークを過ぎていった「望郷歌謡」のラストソングだった。
「望郷歌謡」は故郷がまだ夜行列車に揺られなければ帰れなかった時代の歌で、やがて新幹線の登場とともにそのリアリティも失われていった。
あの頃佐渡を背景にした歌が少なくなく、三波春夫の「チャンチキおけさ」ともども好きな歌。
2曲目は昭和37年の「江梨子」。
ソングライトはやはり吉田・佐伯のビクター黄金コンビ。
股旅ものから脱皮し青春歌謡へ向う過渡期の歌で、純歌謡曲といえるのかもしれない。これも映画の主題歌で「おけさ唄えば」では脇役だった橋も2年経って主演に出世している。ヒット曲からストーリーをつくるという以前は当たり前の「歌謡映画」で、もちろん主演は歌手でなければならなかった。ちなみに相手役だった三条魔子はこのあと三条江梨子に改名している。
映画は架空の純愛ドラマだが、作詞の佐伯孝夫は江梨子を或る実在の人物をイメージして書いたという話もある。
そのヒロインは当時の作家や文化人と浮名を流して自死したといわれる銀座の酒場のホステスだとか。大岡昇平の「花影(かえい)」の主人公で、佐伯孝夫もその酒場の常連だったのだとか。ちなみに大岡昇平が「花影」を発表したのは「江梨子」の前年の昭和36年のこと。
最後は橋幸夫を聴くうえで外せない「リズム歌謡」を。
昭和40年(1965)5月リリースした「あの娘と僕」。
「スイム・スイム・スイム」というサブタイトルがあるように60年代にアメリカで生まれたダンス「スイム」を取り入れた楽曲。詞・曲はやはり吉田・佐伯コンビ。
そもそも日本のリズム歌謡ブームはアメリカで1962年頃からはじまったエレキギターを前面におし出したサーフミュージックなどを日本の流行歌に取り入れたもので、橋幸夫は64年にその第一弾として「恋をするなら」を出している。
さらにその年のうちに「ゼッケンNo.1スタートだ」や「チェッ・チェッ・チェッ」などのリズム歌謡をリリースしている。
日本でベンチャーズによるエレキブームの大爆発が起こるのが1965年なので、橋幸夫のリズム歌謡はそれに先がけていることになる。さらにエレキを受けての一大ブームとなるグループサウンズ(GS)が日本の流行歌の世界を本格的に席巻するのが1966年なので、それよりも早いことになる。
ちなみに「スイム」とは60年代にアメリカで生まれたダンスだが、同様のツイストやゴーゴーほど流行らなかったようだ。動画はNHK紅白歌合戦のもようでバックで柳家金語楼や渥美清が踊っているのがご愛敬。
今日は自転車で通勤。
先日パンクをなおしてから、よく乗るようになった。足が衰えたのかも。
暑さきびしいなかでも風を切るのは気持ちがいい。いつもの公園の中に入ると思わず口笛が。それが「おけさ唄えば」。やっぱり心の中というか頭の中に橋幸夫さんの訃報が残っているのだろう。ちなみに帰路も思わず口笛を吹いてしまったのだが、これが「恋のメキシカン・ロック」。ほんとに無意識で。どちらもノリの良い歌だが、多分自転車のせいだろう。
口笛では失礼かもしれないが、もちろん動画でも橋さんの楽曲をずいぶん観て聴いた。供養になっただろうか。楽しい歌をありがとうございました。

今回は先日亡くなったコニー・フランシスの流れから日本のカヴァポップスを。それもガールズを。それもその草分けのシンガーを。
ということで伊東ゆかりを。
レコードデビューは昭和33年(1958)11歳で「かたみの十字架/クワイ河マーチ(映画『戦場にかける橋』テーマソング)」で。6歳から米軍キャンプでうたっていたというから、ガールズカヴァポップスの草分け。なにしろブームの火付け役となったザ・ピーナッツが「可愛い花」でデビューしたのは1959年のことなので。かの「3人娘」の中でもいちばんはやい。もっとも園まりは童謡歌手として1956年にレコードデビューしているが
とにかくピーナッツがデビューした2カ月後ナベプロ(渡辺プロダクション)が企画した「ザ・ヒットパレード」がフジTVで放映される。さらにその2年後の36年には日本テレビでやはりナベプロ制作の音楽バラエティ「シャボン玉ホリデー」が始まる。もちろん両番組ともカヴァポップス満載。
ナベプロ以外でも1960年にはミーナの「月影のナポリ」で森山加代子が、61年にはヘレン・シャピロの「子供ぢゃないの」で弘田三枝子がデビュー&ブレイクして、ガールズカヴァポップスは全盛期を迎えることに。
ナベプロでも62年に中尾ミエがコニー・フランシスの「可愛いベイビー」のビッグヒットで全国区になっている。まさに1962年、昭和37年のガールズカヴァポップス界隈は「役者がそろった」観があった。
では伊東ゆかりは。
33年のデビューから翌年にかけてカヴァ中心で6枚のシングル盤を出しているが、ヒットにはつながらず、真相は不明だが本人が学業(中学校)に専念したいとうことで短期休業状態に。子供なのでそのまま芸能界からサヨウナラということにもなりかねなかったが、本人の歌への執着が強かったのか、はたまた周囲が彼女の才能を見抜いていたのか、中学卒業の目途が立ったタイミングで35年アルマ・コーガンの「ポケット・トランジスター」(なつかしいのでフライング。残念ながら伊東ゆかりではなく飯田久彦や森山加代子でよく聴いた)で再デビュー。
翌37年、ニール・セダカの「素敵な16才」から本格的に活動再開となった。
それではその伊東ゆかりの洋楽カヴァ、我的3曲を。
まずは「大人になりたい」(1962)。
学業専念の活動休止を解いて再デビュー?して2枚目のシングル。コニー・フランシスのカヴァ。訳詞は漣健児でB面はA面同様のティネージソングの「コーヒー・デイト」でオリジナルは男のエディ・ホッジス。
この年はほかに同じコニーの「ヴァケーション」やニール・セダカの「悲しきクラウン」など6枚のシングル盤をリリースしている。
続いて「恋の売込み」(1963)。
翌38年の1月にリリースされた歌で、やはりエディ・ホッジスのカヴァ。オリジナルはビートルズがカヴァした「ツイスト&シャウト」をうたったアイズレー・ブラザーズ。原曲も寝ている恋人を強引に起こしてデートに誘おうという困った積極少年の歌。
忠実な訳詞はあらかはひろし。音羽たかしと同じ伊東ゆかりが所属していたキングレコードのディレクター集団のペンネーム。ほかにザ・ピーナッツの「ジョニー・エンジェル」やペギー葉山の「ラ・ノビア」、岸洋子の「ラストダンスは私と」、木の実ナナの「太陽の下の18才」などが。
3曲目は彼女のキャリアに欠かせないカンツォーネの「夢見る想い」(1964)。
オリジナルは日本でも人気のあったジリオラ・チンクエッティ。
伊東ゆかりがそれまでのアメリカンポップスに加えてカンツォーネもカヴァするようになったのは1964年。翌65年にはカンツォーネの本場イタリアのサンレモ音楽祭に「恋する瞳」で参加。以後チィンクエッティの「愛は限りなく」やウィルマ・ゴイックの「花のささやき」や「そよ風にのって」をカヴァするなどカンツォーネを積極的レパートリーに取り入れるようになる。歌上手ならではの新規開拓。
ただこのサンレモ優勝曲「夢みる想い」をシングル盤としてはリリースしていない。1964年のカヴァアルバムの1曲として収められている。
ちょうど1年前、園まりが亡くなりスパーク3人娘は消えてしまった。3人娘でいうとちょうど2歳間隔で、園まりが長女、次女が中尾ミエ、伊東ゆかりは末っ子だった。
オマケは3人娘のカヴァポップスを。
まぁ、伊東ゆかりにとってカヴァポップスは彼女の歌手人生の助走であり、ほんの一部に過ぎないのだけれど。

やっと雨はあがったけれど暑い。蒸し暑い。
明後日は終戦記念日。1年に1度くる。あたりまえだよね。来年も再来年も10年後も。ほんとにそうだろうか。
「もういいんじゃない、終戦記念日なんて。80年も昔の話だよ、暗い戦争のことなんか忘れて8月15日は花火の日とか、夏祭りの日とかに変えたら」
なんて。
「なぜ君は戦争に?]
テレビの戦争特番のキャッチコピーのようだ。テレビ番組については何らかのテーマがあるのだろうから、それは置いておくことにしてこの言葉が気になった。
誰が誰に問うているのだろう。
「君」とは兵士として戦争を体験した人たちのことで、日本でいえば第二次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争あるいは日米戦争と呼び方はさまざまだが、80年前に終了したかの戦争に従軍した人たちのことだろう。
終戦時20歳としても現在100歳。あと10年もすれば戦争体験者ゼロになるだろう。あの頃戦死した人たちは、それから80年が経過してしまったのだ。わたしを含め現代人のすべてがその80年のすべて、あるいは一部を生きてきた。そう考えると、あの戦死者たちにとってなんという80年なのだろう、と思ってしまう。
ではそうした兵士たちに「君は」と訊ねているのは誰か。多分現代の戦争反対の人々。戦争の好きな人はほぼ(99%)いないが、場合によってはやむを得ないという人はいる。個人的感覚でいうと昨今増えているし、これからも増えていくのではないか。
それはともかく、「なぜ君は戦争に?」というのは現代の反戦派が80数年前にタイムスリップして当時の若き兵士たちに問うているのではないだろうか。
ならばわたしも20年あまり前にタイムスリップして、死んだ父に訊いてみる。
「なぜあなたは戦争に?」。
当時従軍して漢口より生還し、昭和、平成を40年あまり生きたわたしの父親は半笑いしながらこう応えた。
「なぜかって? それは徴用されたからだよ」。
「なかには真剣に護国報恩の思いから使命感や義憤を持って銃をとった者もいたかもしれないが、私は正直イヤだった。往きたくなかった。死にたくなかった。しかし周囲の動向(いまは同調圧力というらしいね)から勇者、いや「卑怯者」にはなりたくなかったし、そもそも徴兵拒否という発想がなかった。当時の日本はそういう教育であり、それが常識だったんだよ。だから「なぜ」なんて疑問が介入する余地なかったし、今更そんな質問をされても……、というのが本音だね」
「私は幸運にも生還したが、学生時代からの無二の親友は戦死した。殺されたよ。
敗戦から半世紀以上、平和な日本で生きてきたけれど、その間ときどきよぎった思いが〈あゝ、アイツが今がいたらな…〉ってこと。だから振り返ってあの戦争に言葉を放つとしたら「アイツを返せ」「私の青春を返せ」ということだな」
8月15日にはこの歌しかない。今年はブルーグラスで。
いつも洋楽なので日本の歌でも。
日本の反戦歌は「もずが枯木で」とか「さとうきび畑」とか「戦争は知らない」などなどあるが、国民性によるのかストレートに反戦を叫ぶというより、婉曲に抒情的に戦争の悲劇を訴えるという歌が好まれるようだ。それが日本の国民性であり美意識だということは否定しないが、時と場合によっては権力への配慮や阿りと捉えられても抗えない。
インディーズの世界ではダイレクトな反戦歌が(きっと)あるのかもしれないが、残念ながら老人の耳に♪war no more という歌は届いてこない。
ほかでは、反戦シンガー忌野清志郎の「明日なき世界」なんて歌もあるがこれはバリー・マクガイアのカヴァ。どちらも好きだけど。純日本製でなかなかの反戦歌と思えるのはこの歌。
半世紀前にこんなことが言えるとは。いや半世紀前のあの時代だからこそ言えたのかもしれない。女々しい(ジェンダー的にダメ?)歌だと思うかもしれないが、これほど勇気のある詞(ことば)はない。
少子化が進行して憲法改正で徴兵制が復活し、国家総動員で「撃ちてし止まん」「欲しがりません勝つまでは」なんていつか来た道を若者たちがふたたび歩くことになるかもしれない。80数年前の多くの若者たちのように大きな川の流れに乗せられ、何の疑いもなく気がついたら戦場に立っていたなんてことになるかもしれない。そんなとき「なんで僕が戦争に?」と立ち止まって考えてみることができるかな。

今日は暑かった。汗のかき方がいつもと違った。体調のせいかもとも思ったが、外出から帰宅してテレビのニュースを見たら今年最高といっていたので「よっしゃ!」と思った。何のことやら。
唐突だけどマンガやアニメはまず見ない。
あたりまえだよね、この歳で「鬼滅の刃」や「呪術廻戦」(内容知らずに書いてます)大好き、なんて言ったら「大丈夫か?」って言われかねない。
ただご同輩でもそうしたマンガやアニメのマニアはいると思う。もし彼が生きていれば。
もちろん幼い頃はマンガを読んでいた。貸本マンガからはじまり、「少年画報」「ぼくら」「少年」などの月刊誌、さらには「少年マガジン」「少年サンデー」の週刊誌も読んでいた。回りを見てもそれがフツーだと思っていた。
同時に、中学生になったらマンガから「卒業」するのがフツーだと思っていた。じっさい中学生になるとマンガ雑誌を買うのをやめた。でも金ボタンの制服を着たからといってスッパリやめられるわけもなく。月に一回理髪店に行ったとき、待ち時間でむさぼるように読んでいた。しかしそれも、時間が経つにつれて自然と「依存症」から抜け出せていた。
アニメに関しても幼い頃はテレビでディズニーの「ミッキーマウス」や「ポパイ」、「マイティマウス」、「進めラビット」、「フィリックス君」などけっこう見ていた。それもやはり中学までの通過儀礼で、自分の事を「俺」というようになると同時にやめた。
それから十数年、何事もなかったのだが、ある時突然「マンガ、アニメは子どものもの」という固定観念が揺らいだ。
それは職場の同い歳の同僚の影響だった。とくに親しいという間柄ではなかったのだが、昼休みや残業での雑談で彼がすこぶるマンガ、アニメ好きであることがわかったのだ。まだ「オタク」なんて言葉もない時代だ。
彼はなんとテレビアニメをビデオ録画して何本も見ているというのだ。彼のアニメ作品に対する評論もなかなか説得力があったし、「コミックマーケット」のことを教えてくれたのも彼だった。今から考えれば筋金入りの「オタク」である。
残念ながら、従来の「フットワークの良さ」でわたしはその会社をすぐに退職してしまいマンガもアニメも興味をつなぐことはできなかったのだが。
それからしばらくして、ある広告代理店にいた先輩に誘われて図らずともアニメの仕事を手伝うことがあった。「アニメかよ」という思いだったが、今考えるとアニメブームに火がついた頃で、例によってわずか1年余りの仕事だったがなかなか面白かった。
いろいろなアニメーターや演出家にも会った。ガンダムの富野善幸とかジブリ前の宮崎駿とか。宮崎駿はその頃日本アニメーションの「未来少年コナン」を手がけていて、もちろん髪の毛も真っ黒で黒ぶち眼鏡もそのままにポーズなのかクセなのか、話をしながらよく頭をかいていた印象がある。とにかくいつも笑顔でよく喋り、当時若造だったわたしにも態度を変えない好漢だった。
そんななかで知ったのが子ども向けではなく、大人の鑑賞にも耐えうるアニメーションがあるということだった。久里洋二とか古川タクとか人形アニメの川本喜八郎とかカナダのコ・ホードマンとか。
そういう内外の短編アニメを観ている中で木下蓮三・小夜子夫妻と会うことがあり、ふたりの代表作「ピカドン」を見せてもらったのだった。
もちろん「大人のアニメ」という心構えで観たので、内容表現ふくめて作品の中で描かれたことがあの日現実に起こったのだという憤りと怒りが残った。まさに「反戦争」、「反原爆」アニメを観たという思いだった。今回見直してみたが、それでもかなり抑えた表現だったことがわかる。
当時は子どもが観るという考えがなかったのだが、あれから半世紀近くが経ち、当時よりはるかにアニメが社会に浸透している現代ならばどうなのか。小学生は無理としても、中学生はどうなのか。
個人的には見せてもいいと思う。ただ、その成長度合いにはまだ個人差があるので、事前にショッキングな表現があることを伝え、観たくない学生に対してはその意志を尊重すべきことは当然だと思う。
公然と「核武装OK」という政党があらわれ、ある一定の支持を得て、広島、長崎に象徴される反核思想の風化がはじまっていることは間違いない。悲しいかなこれは止められない。80年でこれならばあと20年経ったらどんなことになっているのか。
核を保有する少数の国が、大多数の持たざる国に対して「持ってはならない」と威嚇恫喝する。この人類最大の不条理に対して新たな革新的で明確な答えを出さない限り世界は大悲劇に見舞われること必至だろう。
残り少ないわたしは無力であることを恥じながらこれからも念仏のように反核を唱えていくしかない。賢明な後輩たちはその大不条理を解き明かす答えをぜひ見つけてほしい。
ここは音楽のブログなのでこの季節恒例の「わが師・わが友」であるピート・シーガーのこの曲とあの曲を最後に。