
きょうは暖かかった。
外出から戻って着替えるとき、はずしたマフラーのあとが汗ばんでいた。
時間を遡って今朝のこと。
歩いて駅まで行くうちに気になるご同輩ふたりとすれ違った。別々の場所で。
わたしと同じ老人を見かけたりすれ違ったりすることはめずらしいことではなく、とくに公園などでは頻繁にある。
そんななかで、なぜそのご同輩たちが目についたかというと、ふたりとも赤いスニーカーを履いていたからだ。わたしはファッションに疎いのでブランド名に関してはまったくわからないがどちらも新品らしく際立って見えた。10分余りのうちにふたりも赤い靴を履いたお爺さんとすれ違うとは、もしかしたら今流行りなのかな。と思って道すがらすれ違う人の足元ばかりを見ていたがその後、赤い靴には出会わなかった。
そのあと電車に乗ったのだが、やはり駅でも車中でも赤い靴は見あたらなかった。老人はもちろん若い人でも。いまどき赤い靴は流行りではないのかもしれない。となるとあの赤い靴の老人たちはたまたまなのか。
そんなわけで今日は「赤い靴」の歌について考えてみた。暇なもので。というかこれからすぐ忙しくなるので。
「赤い靴」の歌といわれて思いつくのが、
♪赤い靴 履いてた 女の子 異人さんに連れられて 行っちゃった という童謡「赤い靴」(詞:野口雨情 曲:本居長世)。
この歌については少女のモデルがいたとかまったくの創作だとかいろいろな説があるがそれはさておき、この歌がつくられたのは大正11年(1922)。
当時の日本に赤い靴があったのだろうか。当時はまだ女性は(男も)和装、草履、下駄が主流で男女とも洋服、靴はめずらしかったようだ。
大正末から昭和にかけて世間の眼を惹いたといわれるモボ・モガは間違いなく洋装だが、その存在はいかほどのものだったのか。以前読んだ本にはモボ・モガの聖地・銀座でも洋装の人は100人に1人くらいだった、なんて書いてあった。
彼らがどんな服装をしていたのか、どんな靴を履いていたのかを知るには新聞・雑誌などの写真や映画などが参考になるのだが、残念なことにすべてモノクロなのだ。ちなみに国産カラー映画の嚆矢は高峰秀子が主演した「カルメン故郷に帰る」(木下恵介監督)で昭和26年のこと。たしかに踊り子役のデコちゃんは赤い靴を履いていた。
しかし戦前はどうだったのか。
もうひとつ当時の世相やファッションを知る手がかりとして流行り歌がある。「歌は世につれ」というように新奇なものにとびつくのが流行歌。
ところが戦前昭和の流行歌はいかに色味がとぼしかったことか。映画がモノクロ一辺倒であったように残念ながら流行歌もほぼモノクロなのである。
せいぜい出てくるのは「紅の帯」「緋ぢりめん」「錦紗のたもと」「赤い手絡(髪飾り)」などの和装の色。ごくごくまれに「紅のドレスで踊る夜は」(東京娘・昭和11年)のようなものもあるが。
靴でいうと「赤い刺繍の靴を縫う」とか「黄色い子靴」などの表現もあるが、履いているのは日本人ではなく蒙古や中国の女性の描写である。このへんにも日本人の華美意識の抑制が感じられる。
さらに時代がすすめば「花の振袖モンペに代えて」とか「おしろいつけず紅つけず」という超モノクロ戦時体制時代へと向っていくことに。
日本人女性のファッションがカラフルになり、赤い靴を履くようになるのは戦後もしばらく経ってから。
それは昭和25年(1950)、映画によってはじまった。
その年日本でイギリス映画の「赤い靴」が公開された。アンデルセンの残酷童話をベースにしたバレリーナの悲劇を描いたもので、世界でも日本でもヒットしたとか。見てません。
映画「カルメン故郷に帰る」の1年前のことである。
映画の赤い靴とはバレエシューズのことなので、そのことにより日本で女性が履く赤い靴が流行ったかどうかはわからないが、あきらかに影響を受けたと思われる歌が登場した。それも映画公開と同じ年の昭和25年という目ざとさ。
それがコロムビアの奈良光枝がうたった「赤い靴のタンゴ」。
戦前からの黄金コンビ古賀政男(曲)西條八十(詞)で、赤い靴で踊る旅回りの踊り子のストーリー。切ない恋をしても、やがてはその土地を離れていかなければならないという運命の嘆き節がヒット。
ほかでは翌26年にヒットした暁テル子の「東京シューシャインボーイ」のなかに、
♪赤い靴の あのお嬢さん と出てくる。主人公は当時流行の靴磨き。宮城まり子の「ガード下の靴磨き」にうたわれたような靴磨きの少年が話題になったが、こちらはファッショナブルでダンスが上手という靴磨き青年の話で、赤い靴のお嬢さんはお客さん。
以後めでたく? 赤い靴は解禁となった。
例によって長くなりすぎたので、知っている赤い靴の歌を列挙。
「子供ぢゃないの」弘田三枝子 昭和36年
♪お出かけする時はねえ 真っ赤なハイヒール と出てくるミコちゃんのデビュー曲。洋楽カヴァでオリジナルはUKのヘレン・シャピロHelen Shapiro 。
「赤い靴のマリア」ワイルドワンズ 昭和44年
41年「想い出の渚」でデビューのGSバンド9枚目のシングル。曲はリーダー加瀬邦彦、詞は「愛するってこわい」(じゅん&ネネ)の山口あかり。編曲は川口真。
なぜか船で去っていく赤い靴のマリアへの惜別の思い。愛していた、追いかけて 辛い 逢いたいと未練たっぷりにうたっている。
このあたりからGSブーム、バンドともに退潮へ。
「赤いハイヒール」太田裕美 昭和51年
地方から出てきた若い女性が東京の象徴である赤いハイヒールを買って履き続けるという、これも少しアンデルセンの残酷童話がでてくるストーリー。前作「木綿のハンカチーフ」の逆歌で、彼氏が(赤い靴なんか脱いで)故郷へ帰ろうとうたっている。前作同様、松本隆・筒美京平・萩田光雄のゴールデントリオ。
「赤い靴のバレリーナ」松田聖子 昭和58年
バレリーナの歌ではなく、赤い靴を履いて踊るバレリーナのように歩いてみたいと思う恋するナルシスト少女のことをうたっている。詞は松本隆、曲は甲斐バンドの甲斐祥弘、アレンジは瀬尾一三。松田聖子ではその2年後に「赤いスニーカー」もある。
「プレゼント」ジッタリン・ジン 平成2年
♪お菓子のつまった赤い靴 これは本物の靴ではなくクリスマス用のブーツ型容器。最近TVCMで流れていたような気がするが、ほかにオレンジ色のハイヒール、中国生まれの黒い靴が出てくる。彼からプレゼントされたものの羅列ソング。さいごにその彼に彼女がいたことがわかり、それが彼からの最後のプレゼントで、自分も「バイバイ」の言葉を贈ってあげるというオチ。
「赤い靴」さだまさし 平成2年
坂道、港、外国船が出てくる。舞台は横浜、横須賀、神戸が思い浮かぶが、童謡「赤い靴」へのオマージュだろう。赤い靴をはいてた昔の彼女への追憶であり、いまでも自分を励ましてくれる思い出だという、さだまさしの歌らしい前向きな失恋・追憶ソング。
随分長くなってしまいました。反省しております。
それでもやるか、オマケソングを。洋楽で。
カントリーではドリー姐さんdolly parton の「赤い靴」red shoes がある。
これは彼女のヒット曲「コートはカラフル」coat of many colors 同様、幼い頃の思い出をうたったもので、大好きなルーシーおばさんの履いていた赤いハイヒールに憧れつづけ、やがてそれを履くことができたとき、どれほど幸せだったことか。子どもにとって憧れを抱いて生きていくことがどんなに大切な事か。この靴を履いてわたしは自分の道を歩き続けるとうたっている。そしていつか天国へ行けたら、やっぱり赤い靴を履いて、あのルーシーおばさんと並んであるきたい、と。
赤い靴ねえ。わたしは多分死ぬまで(もう少しだけど)履かないなあ。
若い頃、赤いラインの入った白いスニーカーは履いたことがあるけど。
赤味でいうと身に着けるもので唯一赤っぽいのが臙脂のタートルネックセーター。これは20年前に死んだ親父の形見で、生前からカウントすればほぼ30年あまり着られていることになる。さほど傷んではいないが、親父を悼んで着ている。なんて。
選挙についても言いたいことはあったけど抑えておこう。やっぱりひと言だけ。
高市さん、ケガをしたそうでお見舞い申し上げます。指はテーピングの上から手袋をしたほうが見栄えがいいですよ。

歩いているときよく口笛を無意識に吹く。古い人間なので。いまの若い人は口笛吹けるのかな。まぁそんな必要もないだろうし。
今日も人通りの少ない公園を通過しているとき、口笛が出た。
一瞬なんの曲だかわからなかった。こういうことはよくある。そのまま曲名不明で忘れてしまうこともあるが、今回はすぐにわかった。
昨年あたりからTVコマーシャルでしばしば耳にする歌だ。
それは葬儀社のTVコマーシャルで。ほんとに頻繁に流れるのでつい脳ミソに刷り込まれてしまったのだ。まんまとかれらの術中にはまってしまった。
このCMだけでなく、最近とくに葬儀社のTVCMが目につく。ベテラン俳優をつかったものや、小学生くらいの女の子が出てくるものもあったり。
みんな楽しそうで「当社では楽しいお葬式をご用意しておりますので、ご家族のみなさん、安心しておじいちゃんやおばあちゃんに逝っちゃてもらってください」と言っているよう。そんなことはないか。
とにかく葬儀社のCMがやたら増えている理由ははっきりしている。
時代がうつり日本人の意識が変わってきたのだ。
「葬式」「おとむらい」というとかつては、もちろん人間の営みとして欠かせないものとはわかっていても、どこか忌み嫌うところがあった。たとえば霊柩車をみたら親指を隠すとか。世話になるくせに、そうしたセレモニーに従事する人たちへの差別意識があったり。そういう意識が変わってきているのはたしか。
そのひとつのキッカケになったのは30年あまり前に書かれてベストセラーになった「納棺夫日記」(青木新門著)だろう。葬儀社につとめる男の仕事と生活をとおして、リアルな「弔い」の仕事に読者は感銘し共感した。そして葬儀社への偏見や葬儀への畏れを緩和し、理解を深めることにつながった。そのことが、葬儀社のテレビCMなど表だっての宣伝に対する躊躇をとりはらったのではないだろうか。
さらに大きかったのはここ10年あまり?前からの「家族葬」の普及だろう。なにがキッカケになったのかはわからないが、「年賀状じまい」や中元・歳暮の廃止等、虚礼廃止という合理化意識が日本の伝統や風習を変えてきているのかもしれない。もうひとつは経済的な負担に耐えられないという社会の貧困化もあるかもしれない。
セレモニーの簡略化や廃止が一時的なものなのか、「歴史的必然」なのかはわからないけれど。
で、今回は葬式の歌を。
すぐ思い浮かぶのは歌ではないがクラシックのショパンに代表される「葬送行進曲」。ショパンのものは子どもの頃から、ギャグやコントでつかわれていたお馴染みの曲だ。まわりの誰かが失敗して落ち込むと耳元でその旋律をくちずさんだり。
ポピュラー音楽で葬式の歌なんてヒットするわけないからあるのかな、と思うがなくはない。
三上寛のアルバム「ひらく夢などあるじゃなし」のラストの曲にすばり「葬式」がある。大昔友人から貰った「三上寛の夢は夜ひらく」が入ったLPで、ちょっとカントリーっぽい「故里へ帰ったら」が好きだった。「葬式」は父親の思い出を三上節でうたっているのだが、クセの強い「がまんできない」というような意味の津軽弁?が愛すべき自慢の父親を失った息子の悲しみを素朴に伝えている。
もうひとつは近年亡くなった別役実が詞を書いて六文銭がうたった「お葬式が行く」。
こちらは母を亡くした子の、恋人を亡くした彼女の、そして名もなき人の葬式の列が墓地へさらには宇宙へ向かって飛んでいくという幻葬。別役ワールドがうたわれている。
むかし新宿蠍座で彼の「スパイものがたり」を観た。内容はもはや忘れている(不条理劇だけに)が、小室等と六文銭、それに常田富士夫が出ていたのを憶えている。
母を亡くした子で思い出したのがアメリカのルーツミュージック「永遠の絆」WILL THE CIRCLE BE UNBROKEN。カーター・ファミリーからロレッタ・リン、ジョージ・ジョーンズ、ロイ・エイカフ、ジョニ・キャッシュ、ニッティ・グリティ・ダートバンドのカントリー連、さらにはジョーン・バエズ、ジャック・エリオットらのフォーキーまで多くのミュージシャンがとりあげてるセイクレッドソング。日本ではなぎら健壱やアグネス・チャンで聴ける。ブルーハーツでも?
母親を亡くした少年がその棺を馬車で運ぶ葬儀屋に「ゆっくり、やさしく運んでください」と訴える場面が出てくる。
オマケに洋楽をもう1曲。
1960年代のスクリーンミュージック。イギリス映画「パーマー危機一発」という英国では知られたスパイシリーズを映画化したもので、原題は[FUNERAL IN BERLIN]ベルリンの葬式。実は映画は観ていない。しかしサントラ盤は買った。マイナー映画でもレコード化してしまう、そんな時代だった。
わたしもそう遠くない将来あちらだかどちらだかわからない世界へ参ります。その時は葬式なんていらない。こっそり焼いてもらって、こっそりその辺に捨ててくれればいい。といっても家族の意向もあるでしょうし、そうもいかない。まぁ、ご自由にということで。
しかし葬儀会社もたいへんだなぁ。少子化時代だけど、これから団塊世代が続々とお亡くなりになって、もうしばらくは需要はある。そこで各葬儀社とも他社との差別化をはかるべく、
「大特価! 今年2月中に申し込まれたご家族には全員料理代無料!」
「今月中に予約のお客様には、次回使用可能な棺代50%オフのクーポン付」
「当社では(心づけ)一切不要」
「当社ではこの価格で棺すべて本桐製」
なんて。馬鹿なことを。

昨年末から今年にかけての仕事がようやく終わり、ひと息ついてます。
今年は餅も少なめ。のどに詰まるのを気にしてではなく、元旦早々、餅が差し歯を引っこ抜いたから。
昨年末に治療を終えた歯医者へまた通い始めている。
とにかく寄る年波で仕事をこなすのに以前より時間がかかり、わたし同様パソ子さんも老化がすすんでいるようでなかなかこちらの言うことを聞いてくれないときてる。
おかげで就寝が毎日午前2時ちかく。当然昼間はうつらうつら。
それが解放された。うつらうつらは相変わらずだが、就寝前はYOU-TUBEで音楽鑑賞。
最近はカントリーというか、アメリカのルーツミュージックを飽きずに聴いております。
今日も何曲かを聴いてみたいと思います。
まずは2017年に結成されたファミリーバンド「コットン・ピッキン・キッズ」COTTON PICKIN' KIDS の「アイル・フライ・アウェイ」I'LL FLY AWAY 。
コットン・ピッキン・キッズはアラバマ出身のブルーグラス・バンドで動画でリードヴォーカルとフィドル担当なのがテレーズ、両脇のコーラスが姉のセシリア(ギター)とロザリンダ(フィドル)。あとはサヴォイ(マンドリン)、ジャンルカ(バンジョー)、ジョヴァンニ(ドブロー)の兄弟で、バックのサンダル履きでベースを弾いているのが多分お父さん。総勢14人家族だとか。
この歌は1920年代後半、ソングライターのアルバート・ブルムリーによってつくられたゴスペル。元々あったバラッド「囚人の歌」をベースにつくられたといわれる。アルバートがこの歌を思いついたのがコットン・フィールドでまさに綿を摘んでいるときだったとか。となれば今回のバンドにふさわしい歌ともいえる。
多くのカントリー、ゴスペルシンガーたちが好んでうたう歌で、「やがていつか自分に死が訪れたら、鳥のように空を飛んでいきたい。狭い獄舎や鉄の足枷からも解き放たれ、天国の川辺でも、喜びの絶えない土地へでも、どこへでも飛んでいくだろう」というやがてくるだろう魂の自由をうたっている。
2曲目は「ブラザース・オブ・ザ・ハート」BROTHERS OF THE HEART の「ダディ・サング・バス」DADDY SANG BASS を。
ブラザーズ・オブ・ザ・ハートのメンバーは、ゴスペルシンガーのブラッドリー・ウォーカー(ヴォーカル)、同じくマイク・ロジャーズ(ギター&ヴォーカル)、同じくジミー・フォーチュン、そして音楽プロデューサーでもあるベン・アイザック(ベース)の4人。ブラッドリーは幼いころからの病でいつも車椅子でうたう。ジミー・フォーチュンはゴスペルグループの「スタットラー・ブラザーズ」に長く在籍していた。
「ダディ・サン・バス」はカントリーあるいはゴスペルとしてよくうたわれる歌。1968年、エルヴィスもうたった「ブルー・スウェード・シューズ」を自作でヒットさせたカール・パーキンスによってつくられ、ジョニー・キャッシュがヒットさせた。
家族愛をうたった歌で、貧しい時も家族みんなが集まってうたった。父さんは低い声で、母さんは高い声で…と続く。途中、やはり家族愛をうたった聖歌「永遠の絆」がはさまれている。
最後はもういちどファミリーバンドで。
先日も聴いたブランデンバーガー・ファミリーで「青い鳥が呼んでいる」I HEARD THE BLUEBIRDS SING を。
孤独な僕が彼女と出会い恋に落ちたときも、結婚式の時も、悲しい時も幸せなときもいつも青い鳥が啼いていたね。というハッピーソング。1952年カナダのホッド・ファリスによってつくられ、「谷間に三つの鐘が鳴る」THE THREE BELLS のビッグヒットで知られるブラウンズによってうたわれた。ブラウンズも兄、妹二人のファミリートリオ。男女のデュオとしてうたわれることが多く、一昨年亡くなったクリス・クリストファーソンと元妻のリタ・クーリッジでも知られている。
ブランデンバーガー・ファミリーについてはビクターとアンジェラという夫婦がつくったゴスペルバンドということだが、詳細は不明。したがって動画のメンバーの名前や関係もわからない。女性はアーミッシュスタイルだが、本物かどうかも不明。そもそもアーミッシュは音楽演奏をよしとしないとも。また彼らはアーミッシュから破門されたとい話も。ミステリアスなバンドである。
やっぱりアメリカンミュージックはいいなぁ。なんたって歌謡曲とアメリカンミュージックで育ってきたのだから。アメリカンミュージックはいい、といっても今のアメリカに敬意をもっているわけではない。
トランプゲームにはもうウンザリだ。
あんな酷い犯罪まがいのことを行っているのに誰も強く抗議しない。日本も。立場上政府として言えなくても議員個人としてなら言えるはず。でも抗議の声は聞こえてこない。与党も野党も。囁いているのかもしれないが、そんな場合じゃない。
今後ロシア、アメリカ、中国の三大野望国家が世界を支配していくのはたしか。もしかしたら三国による「領土分捕り合戦」が始まるのかも。いやもはや始まっているのでは。日本だってこの先彼らの「餌食」にならないとも限らない。
どんなならず者とも距離を置き、いざとなったら怯まず立ち向かう。そんな国を……、なんて考えると行きつくところは「君が持つなら僕も持つ」なんて。うやむやになってしまった官邸筋からの「核保有論」。意図的だな、あれは。
現在、世界に1万発弱の核弾頭があり、そのうちの9割はロシアとアメリカが持っている。3番目が中国で600発、最少が北朝鮮の50発だといわれている。いまさら日本が何発かもったとしても抑止力なんかになるわけがない。毎年勤勉に数発ずつ増やしていったところでかの三大野望国家を上回ることはない。国民はその間、その分空腹を強いられることになる。
いざ戦争が始まれば三大野望国家がターゲットとするのはまず相手国の核施設だろうから、日本は開戦とともに吹っ飛んでしまう。相手はどこかはともかく。なまじ核なんか持っていたばかりに。そんな無駄な武装より自然災害も考え、可能な限り食糧の自給と、核攻撃にも耐えうる防御施設の整備に力をそそいだほうがいい。
わたしは多分核戦争をみずにこの世からおさらばできるが、子どもや孫たちのことを考えると悲観的にならざるをえない。
願わくば戦争に巻き込まれないためのグッドアイデアと実現力を持った指導者が出現することを。日本でも世界でも。

昨日は正月早々忙しい日だった。
年末に会えなかった知人と根津で昼食を。
食後いつもなら喫茶店に入って話の続きを、ということになるのだが、知人がいささか食べすぎたようで、腹ごなしに歩こうということになった。
知人はわたしより2歳年上だが健脚でほぼ毎日1万歩以上歩くという散歩マニア。さすがに歩くのも速く着いていくのがやっと。
不忍通りを千駄木方面へ。途中で右へ曲がってへび道からよみせ通りを通って谷中へ。まあ、裏道のよみせ通りのほうが不忍通りよりも人の多いこと。とりわけ谷中銀座は満員状態でパス。よみせ通りを突っきって道灌山通りへ、そこを右折して西日暮里駅から帰ることに。
夕方は6時から徒歩20分あまりの「実家」で初食事会。
家を出ようとしたらもの凄い「正月の雹」。しばらく待機しているとやがて雪に。初雪だ。昨年末はついに降らなかった雪が、やっと降った。それも正月に。雪はそこそこ降っていたが、気にならない。寒さも感じない。今年は昔ながらの一年? になりそうだ。
「実家」から戻る頃には雪は小降りになっていた。明日は晴れるそうで地面のシャーベットも解消されそう。
子どもじゃあるまいしとも思うが初雪にはなんとなくウキウキするものがあった。大雪で苦労しているみなさんにはわるいが、東京人は雪が好きなのだ。
初雪の歌を。
雪の歌はそれこそ降り積もるほどあるのだろうが、「初雪」となるとあまり知らない。「初雪」という言葉が登場する歌でいうとEXEILLの[LOVERS AGAIN](2007)とかEPOの「12月のエイプリル・フール」(1986)とか。なかでも唯一口ずさめるというのが1968年の「小さな日記」。フォー・セインツもいけど、今日はなつかしい岡田可愛で。亡くなった恋人を偲ぶメモリーソングを。
洋楽ではまさに「初雪」というタイトルの歌がある。
毎度毎度のカントリーになってしまうがローリン・ローズが曲を書き、ハンク・ウィリアムズが詞をつけた[AT THE FIRST FALL OF SNOW](1948)。
「公園で出会った男が私に語り始めた。それは1年前の初雪が降った日、彼の愛する彼女が天に召されたという話だった。彼女の形見の人形をいまだ身近に置くほど悲しみは癒えない。今年も初雪が降ると彼女のことを想い出すのだ、という話だった。彼は話を終えると満足したのかほほ笑みを浮かべて去っていった。しかし私の心はいまだ泣いていた。なぜなら、私もまた何年か前の初雪の降る日、愛する人を失っていたからだった」
という内容の歌。これまた亡き恋人の歌
ハンク以外でもロイ・エイカフ、ジーン・オートリー、オズボーン・ブラザーズなど多くのカントリーシンガーズにうたわれている。今回は好きなハンクの歌で。ただ、「初雪」ということなのでハンクはハンクでもハンク・スノウで聴いてみたい。
もう一曲おまけに。
「初雪」はもう打ち止めなので星の数ほどあるという「雪」の歌を。それも毎年雪が降ると聴きたくなる[ROSES IN THE SNOW]を。これも恋人を亡くしたストーリーで、生前ふたりで雪の上にバラを飾って遊んだ楽しい想い出をうたっている。
名曲でいろいろなシンガーがカヴァしている。もちろんオリジナルのエミルー・ハリスがベストなのだが、今回はアーミッシュ風ブルーグラスバンド、「ブランデンバーガー・ファミリー」で。初雪が降ると愛する人が死んでしまうのでしょうか。
まぁ疲れた一日でした。
明日は多分、100%自由な日になる。一日中家にいて誰とも会わずにいることもできる。ほんとうの寝正月だ。寝る前に気になっていたことを思い出し、スマホを開いて今日の歩数をチェック、「13,829歩」の「8.9㎞」だった。

冷たい雨の中をトボトボと、今日も仕事に参ります。
師走のクリスマス・イヴ。健診を終え、歯の治療も一昨日終り、昨日は懸案のウォーキング2万歩を達成し、あとは大掃除の残すのみ。といいたいところですが、毎年年末スケジュールでドカンと仕事が。まぁ正月休みにやればいいのですが、やっぱり人並みに休みたいので。愉しみは就寝前のYOU-TUBEで音楽を見聴きすること。
前回アイリッシュ・ソングの[Believe me]春の日の花と輝く を聴いてからしばらく聴いていなかった洋楽、それもラヴソングを聴いています。それで今日もそんな[I love you]ソングや[You love me ]ソングを。
「ビリーヴ・ミー」は男性が女性(逆もあり)に「いつまでも君への愛は変わらない」と寛い愛情をうたいあげている。でもどうしてそんなことをわざわざ宣言するのだろう。よくいわれるのは英米人はとにかく[I love you]を口に出して言わなければ、あるいは言ってくれなくては安心できないとか。言ってはみたものの相手に[Release me]なんていわれたら立場なくなるんじゃない。恋に立場なんて考える余地はないか。それもそうだけど。
でももしかしたら、永遠の愛を語った彼(彼女)だが、その前に相手は「いつまでも愛していてくれる?」と訊いていたのかも。それに対して「たとえあなたの美しさが色褪せても、わたしの愛は変わらない」と応えた、なんてことも。
やはりアイリッシュソングにそんな愛を確認するような歌がありました。
[Darling, say you'll love me when I'm old]はやはりアイルランドのトラッドで、「年老いてもわたしのことを愛してるって言ってね」という内容で、「ビリーヴ・ミー」とは裏腹で「ずっと愛しますから、ずっと愛してね」ということなのでしょう。そういうと味気ないけれど。
アイルランドではこの歌を結婚式のときによくうたうそうです。いつか聴いたような懐かしい旋律で、ワルツというのも泣かせます。男歌、女歌両方あるようです。
次はストレートな[I love you song]。
「アイ・ラヴ・ユー・ビコーズ」I love you becauseは1948年カントリーシンガーのレオン・ペインによってつくられた歌。
その後、アーネスト・タブ、ジム・リーヴス、カール・スミス、ウイリー・ネルソン、ジョニー・キャッシュなど多くのカントリー・シンガーのレパートリーとなっている。また、エルヴィス・プレスリーやマット・モンローなどにも取り上げられ、もはやカントリーの枠を超えて、「テネシー・ワルツ」や「この世の果て」のようにポピュラーソングとして愛されている。エルヴィスでも聴きたいけれど、今回は以前よく聞いていたジェリー・リー・ルイスで。
君を愛しているのは「僕を支えてくれるから」「僕を信じてくれるから」「心を軽くしてくれるから」とその理由をあげ、結局「君が君だからさ」とダメ押している。
作者のレオンについてつけ加えておくと多くの曲をつくっており、ハンク・ウィリアムズの「失われたハイウェイ」Lost Highway も彼の代表曲のひとつ。
最後も懐かしい「アイラヴユー・ソング」を。
ストレートなタイトル「アイ・ラヴ・ユー」I love you はゾンビーズ。
ゾンビーズは60年代後半のUKロックバンドで、「シーズ・ノット・ゼア」や「二人のシーズン」が代表曲。日本ではこの「アイ・ラヴ・ユー」がもっとも知られる曲となっている。それはまさにGSブームの真っただ中カーナビーツによって「好きさ・好きさ・好きさ」の邦題でカヴァされヒットしたから。英米より日本でのほうがヒットするというのはよくあるようで、古くはニール・セダカの「恋の片道切符」とかローリング・ストーンズの「テル・ミー」など。だから当時の動画はなく、比較的最近のもの。
ゾンビーズの「アイ・ラヴ・ユー」は前の2曲のような大人のラブソングではなく、「なんで愛が伝わらないんだ」「なんて言ったらいいんだ」という若者の片想いのもどかしい気持ちをうたっている。
まぁ、日本人というかわたしに限っていえば、[I love you]はもちろん「愛している」なんて言ったことも、言われたこともない。いままでも、これからも。他人の異性に対しても、身内に対しても。恥かしげもなく言えるのはせいぜいカラオケでくらい。だからもしカラオケがなかったら、生まれてよりこの「アイシテル」の5文字を一度も言わずに死んでいくところだった。日本人の意識が変わってきている昨今、「アイラヴユー」や「愛してる」を何の抵抗もなく言える若者は増えているのだろうか。
久しぶりに聴いたジェリー・リー・ルイスなので、彼の歌をオマケに。
「火の玉ロック」で知られるロケンローラーである彼はロケンローにピアノを定着させた功労者でもある。その彼のデビュー盤の「クレイジー・アームズ」Crazy arms を。オリジナルは1956年にリリースしたレイ・プライスだが、ジェリー盤も同じ年に発売されている。3年前に亡くなりましたが、動画は70歳をゆうに超えていると思われるジェリー。歳相応に歌声はなめらかではないけれど、カントリーシンガーとしての一面もしっかりみせてくれています。セッションに加わっているノラ・ジョーンズとのセッションも聴かせるし、ギターでロン・ウッドが参加しているのも豪華。