貧乏暇人のつぶやき -10ページ目

で、その調整に失敗した原因はどこに?

調整失敗、初戦敗戦で暗転 日本協会がW杯敗因を分析

 日本サッカー協会の田嶋幸三専務理事(前技術委員長)は8日、ワールドカップ(W杯)ドイツ大会を総括する技術報告書について記者会見を行い、1次リーグで敗退した日本代表の敗因について「調整の失敗」「初戦を落としたダメージ」などの理由を挙げた。
 日本協会がW杯ドイツ大会での日本代表の戦いぶりについて公式の場で見解を示すのは初めて。同専務理事はW杯開幕前に開催国ドイツと2-2で引き分けた親善試合に調整のピークがきてしまったことが誤算だったとし「第1、2戦ともコンディションが悪かった」と分析した。さらにオーストラリアとの初戦の重要性を強調されるあまり、終盤の衝撃的な逆転負けで「選手のダメージが大きく、3戦を通して戦うというイメージができなかった」と敗因を挙げた。
 このほか報告書では日本が長年抱える高さや球際の弱さの問題に加え、運動量不足も指摘。同専務理事は、今後の課題として継続的な若年層の強化、Jリーグのレベルアップなどを挙げ「地道にやっていくしかない。絶望感はないが簡単なことではない」とまとめた。
 報告書はDVDとセットで10日から一般にも販売される。
(了)

[ 共同通信社 2006年11月8日 19:28 ]


まるでDVDとセットで販売される報告書の宣伝ですね。

きっとどうやったら調整がうまくいったかすら書いてない予感がしますけどねえ。


そんな報告者買うまでもなく

・監督が素人だったから

・Jビレッジでの練習を連日一般公開して選手が集中できなかったから


って2つの理由で説明できるのでは?

第86回天皇杯 全日本サッカー選手権

4回戦 ジェフ千葉 対 コンサドーレ札幌(J2)

11月8日(水) 19:00~(21:00) BS1 生中継(解説・山野孝義、実況・一橋アナ)


4回戦 鹿島アントラーズ 対 ホンダFC(JFL) 

11月9日(木) 01:10~03:00 BS1 録画(解説・宮澤ミシェル、実況・泉アナ)

祝:U-20W杯出場決定!

U-19アジアユース準々決勝結果

日本2-1サウジアラビア

前半6分に河原が先制するも、後半は苦しい展開に。
疑惑の判定でサウジアラビアにPKが与えられ同点とされるが、終了間際に青木が勝ち越しゴールを上げそのまま逃げ切った。

メンテナンス多すぎだよ

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スポナビも魂売っちまったか...

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セカンドキャリアインタビュー

川淵三郎・志を貫く生き方

2006年11月01日

今や野球とともに日本を代表する人気スポーツとなったサッカー。ワールドカップの日本代表戦といえば、国民的行事にすらなっている。だが、そんなサッカーも15年前まではマイナースポーツでしかなかった。それを変えたのが、川淵三郎が初代チェアマンとなって創設したJリーグだ。Jリーグ、そして川淵の尽力なくして日本サッカー界の今の繁栄はない。自分の志を信じ、さまざまな困難を乗り越えてきた川淵がこれまでの道のりを振り返る。

(聞き手:田中ウルヴェ京 構成:鈴木栄一)

演劇部だった子供時代
―――サッカーは、小さいころからずっとやっていたのでしょうか

 小学校のころは演劇部に入っていました。5年のときに小学校に演劇部、野球部、音楽部と3つの部活動ができ、スポーツが好きだったので野球部に入ることも考えたのですが、一度NHKの放送劇に出たときにすごく楽しかった思い出があり、演劇部に決めたんです。その後、高校2年まで放送劇を続けることになるのですが、僕が演劇や放送劇にのめり込んだきっかけは、演劇部の顧問で、児童文学家としても有名だった吉岡たすく先生でした。吉岡先生は話が上手で、先生の話を聞くことが何よりも楽しみだったんです。

 小学校卒業後も吉岡先生にはお手紙を出したり、会いに行ったりしてずっとお付き合いをさせていただいていました。影響を受けた部分も大きく、先生の言葉や教えは今の僕の人間形成に一番役立っていると思います。また、先生が亡くなる前にあるノートを頂いたのですが、それには僕が載っている新聞記事の切り抜きや、僕が先生に出した手紙などがすべてスクラップしてあって、本当にうれしかったです。一生の宝物ですね。

―――とても素敵な先生だったのですね。その後、サッカーを始めたきっかけは何だったのでしょう

 初めてサッカーをしたのは、中学校のときのクラス対抗でした。当時はサッカーボールではなく、バスケットボールのようなゴム製のボールを使っていたのですが、ボールのけり方は知らないし、けると足が痛いし、そのときはサッカーが面白いとは全く思わなかったんです。
 大阪府立三国丘高校に進学し、その高校はテニスが強かったのでテニス部に入ろうと思っていました。しかし、ラケットや硬球のボールを自前で買いそろえなければならず、母に言い出せずにいて。そんな中、1学期の終わりごろにひょんなきっかけでサッカー部に入部することになりました。というのも、サッカー部が四国で行われる大会に出場することになっていて、みんな僕が運動神経に優れているのを知っていたので助っ人として呼ばれたんです。「サッカー部に入ったら四国に連れていってやる」という監督の言葉につられて入部したのがきっかけです。ですので、サッカーをやりたくて始めたわけではなかったんですよ(笑)。

「おれだって日本代表になれる」
―――サッカーを始めてみていかがでしたか

 もともと足が速かったですし、運動神経も良かったので技術はほかの人より優れていたと思います。高校時代には、新聞で「超高校級」と書かれたこともありました。

 公立の大学に落ちて浪人しているとき、高校のOBとして都市対抗サッカーの予選に出場し決勝までいきました。決勝で大阪クラブに延長の末1対0で負けてしまいましたが、大阪クラブは名門チームで日本代表の選手が5人はいたんです。「これぐらいで日本代表なら、おれだって日本代表になれる、本格的に強いところでサッカーをやりたい」と思い、当時サッカーの強豪だった早稲田大学に行こうと決めました。
 2浪の末、早稲田に合格し、サッカー部に入部しました。しごきなどは一切なかったですし、部員の数も30人くらいで、すごく環境の良い部でした。

サッカーと仕事の間で揺れた社会人生活
―――大学卒業後、古河電工を選ばれた理由は

 古河電工には長沼(健)さん、平木(隆三)さん、八重樫(茂生)さんら日本代表選手が多く在籍しており、実業団でサッカーを強くしようとすごく力を入れていた会社だったんです。また、早稲田の先輩だった八重樫さんから猛烈に誘われたことも大きく影響しています。ただ、サッカーのことだけを考えて入社を決めたので、古河電工がどんな製品を売っている会社なのか、あまりよく知らなかったんです(笑)。

 社会人になって2年目に、脊椎分離(せきついぶんり)に見舞われました。大学時代から選出されていた日本代表の練習でドイツのデットマール・クラマーさんに指導していただいたのですが、普段の練習とは内容、量ともに全く違い、疲労がたまっていたのだと思います。ある日古河電工の独身寮で碁を打っていると、腰に激痛が走り、身動きできなくなったんです。レントゲンを見ると骨が真っ二つに割れていて……。医師からは疲労の蓄積によるものなので時間がたてば治まる可能性が高いと、静養を言い渡されました。そのころは東京オリンピックの直前だったのですが、そのけがによってAチームからBチームに落とされ、とても落ち込みました。
 しかし、僕はそんな状況の中でも「負けてたまるか。このままで終わったらおれのサッカー人生は何だったんだ。このままじゃ悔しい」と強く思っていました。そこであきらめなかったことが功を奏し、1年後にはけがも治り、目標だった東京オリンピックにも出場することができました。

―――引退を決意されたきっかけを教えてください

 代表チームは東京オリンピックの翌年、昭和40年に引退しましたが、古河電工では昭和47年の33歳まで現役を続けていました。古河での引退を決めたのはひざの靭帯(じんたい)断裂です。試合は楽しいけれど、けがの影響で練習がとてもきつかったんです。自分からチームに辞める意思を伝えにいきました。

 僕は現役時代からサッカーだけにかまけることなく、仕事も人並みにはきちっとやりたいと思っていました。それでも、東京オリンピックの直前は合宿が多くなり、会社に行ける日数が減ってくると、あまり仕事をさせてもらえないようになって――。そのころはつらかったです。しかし、その一方で、いざ引退してみるとやはりサッカーに関わっていたくて、古河電工の監督になりました。何年か監督を続けたころ、課長職へ昇級するにあたって会社からそろそろサッカーを辞めて仕事に専念するようにと言われました。サッカーへの未練はあったのですが、チームの状態を見ても監督を変えるのは得策かもしれないと思い、このときも自分で決断して辞めました。

日本のサッカー界を変えたくて
―――Jリーグを立ち上げられた経緯を教えてください

 一度はサラリーマンとして仕事に生きようと思ったこともあるんです。しかし、そのうちにサラリーマンとしての人生に疑問を感じ始め、世の中のためにできることはないかと改めて考えてみました。いろいろと考えていると、やっぱり自分にはサッカーしかないなと。そのときにJSL(日本サッカーリーグ)の総務主事就任が決まったので、それをきっかけにサッカー界に戻りました。再出発にあたって「もう一回日本のサッカーを変えてやろう」という強い思いがあり、それが後々のJリーグ発足につながったんだと思います。

 サッカーへの熱が復活してからは、すぐにさまざまな方面で動き出しました。ただし、当時僕はまだ古河電工に所属していたので、会社のトップ、幹部クラスの役員はほとんど反対していました。「何で会社のためにならないことをするんだ。今の状態でいいじゃないか。サッカーは新聞やテレビのニュースにもそれなりに出るんだし、なぜ今の状態を変える必要があるんだ」などと言われていました。「おれは会社のためにやっているんじゃない。サッカー界のためにやっているんだ」と大げんかをしたこともあります。僕はそうやって反対されればされるほど、力がみなぎっていくタイプだっんですよね。

スポーツ界全体を視野に
―――川淵さんのご尽力もあり、93年にJリーグが開幕します。Jリーグの大きな転機として、横浜フリューゲルスの合併問題があるかと思いますが

 フリューゲルスが横浜マリノスに吸収合併された問題(出資会社が経営不振により運営から撤退したため)は、Jリーグチェアマンを務めていた中で一番ショックな出来事でした。しかし、あの一件があったからこそ今のJリーグが経営的にある程度成り立っているんだと思います。Jリーグが継続していくには健全経営、つまり身の丈にあった経営をしていかなくてはならないんですよ。選手への給料も収入に見合った形で払わなくてはならない。当時はフリューゲルスのほかにも経営不振のチームがありましたので、そのことに関しては口を酸っぱくして各チームに注意を呼び掛けていました。そのことでJリーグ全体の経営危機を脱することができたと思います。

―――現在はサッカー協会会長として、サッカー界だけでなく、日本スポーツ界を視野にさまざまな活動をされています

 日本のエリート教育の弊害として、勉強でもスポーツでも何か一つやったら一つばかり――という傾向があると思います。僕は子供のころから野球、水泳、相撲などいろんなスポーツをやっていて、一人が複数のスポーツをやれる環境が整っている欧米がすごくうらやましかったんです。欧米人に生まれたかったと思うぐらい(笑)。そういう思いから、Jリーグでも理念として「豊かなスポーツ文化の振興」を掲げていました。
 基本的にスポーツはどれも楽しいものだと思います。それを日本人に伝えていくことは、日本人みんなが得することだと思うんです。うまい人も下手な人も関係なく、芝生の上でいろいろなスポーツを楽しむことができる国になればいいなと常に考えています。

 また、日本のスポーツ文化を豊かにする上で、子供たちにスポーツの魅力や楽しさを伝えていくことは不可欠です。レベルの違う子供を比較するような指導ではなく、上達していくことの喜びや、遊び感覚でスポーツを楽しむことを教えていかなければならない。指導者は広い視野を持って子供に「楽しさ」を教えてほしいですね。

現役選手へのメッセージ
―――川淵さんが選手だった時代から、良くも悪くもサッカーを取り巻く環境は変わったと思います。今サッカー選手をやっている20代前半の選手たちに、今の川淵さんから何かメッセージはありますか

 中学、高校時代から恵まれた環境でサッカーをやってきて、例えば高校時代からそれなりのスタープレーヤーになっていた若い選手たちには、お客さんや対戦相手に対する敬意が足りないような気がしています。やはりお客さんがお金を払って見に来てくれていることを常に意識していてほしい。そうすれば、誤審だといちいち審判に文句を言ったり、ちょっと足を引っ掛けられただけで寝転がって痛がりながら時間をとったり、相手に大けがをさせるような汚いプレーをしたり、ということはしないはずです。
 僕らはマイナースポーツだったころからサッカーに携わっているので、今の人気は本当に多くのファンやスポンサーに支えられていることをよく認識しており、そういう人への感謝の気持ちはいつも忘れません。

 常に感謝の気持ちを持つということ。それは人間としての最低限の感情で、これから先どんな人生を歩んでいくにしても、感謝の気持ちを持つことでいろいろな物事が広がっていくと思います。何よりもまず、感謝の気持ちを忘れないことです。

やりたいことをやり通す
―――変な質問で恐縮ですが、いつか川淵キャプテンも死ぬときがきます。死ぬ直前にご自身の人生を振り返ってみて、どんな人生を送っていれば悔いなく死ねると思いますか

 人はさまざまな「遠慮」をして生きていきます。特に日本人はそれが顕著で、言いたい放題、やりたい放題やって周りが自分を好いてくれることはなかなかありませんし、自分自身を制約することが社会性の証というような考えがある。しかし、その人が個性豊かなら、やりたいことやっていても周りが許してくれたり、明るく接してくれたりするんじゃないかと思うんです。やりたいことをやって、そのことが世のため、人のために役立ったと思えたら満足できる人生ではないでしょうか。
 その点、僕は今まで自分の望む方向や志が、世のため人のためになると信じて、割とやりたいようにやってきました。実際に世の中のためになれているという確信がありますし、この10年余りはすごくハッピーです。晩年にこういう仕事ができて自分は何て幸せだろうと。あとはうまく死ねればいいなと思っています。長患いして死ぬのは嫌ですね。


―――好きな言葉を教えてください

 僕の座右の銘は、中国の礼記の中にある言葉で「斃れてのち已む(たおれてのちやむ)」です。字の中に「死」という字があるように、ただ倒れるのではなく死に倒れたときに初めて自分のやっていることを已む――ストップするという意味です。「強い意志を持って自分のやっていることを貫き通す」「負けてたまるか、今に見ておれ」と思いながら生きてきた僕には一番ぴったりな言葉だなと思っています。

<了>
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/other/career/column/200611/at00011034.html