あえて今のご時世にこういう造り方。
僕の中でのソフビというものは
こんな感じの子供のころに接していたアニメや漫画のキャラクターものです。
「〇〇使い」という憧れのワード。
「〇〇使い」というと
「魔法使い」とか「忍術使い」とか「猛獣使い」など有名な漫画作品だと「スタンド使い」なんていうものまで
よく連想すると思いますが、
僕はこの「〇〇使い」というワードが好きで
例えば
いろんな種類の変化球や豪速球まで投げられる投手の人は「ボール使い」
車を自在に操れる人は「車使い」
洒落ではなくて「喋り」で人心を自在に操れる人は「言葉使い」
ある1つの技能にムチャクチャ時間をかけて修練してとんでもない技術を手に入れた人
生まれ持った才能をやはりたくさんの場数を踏んで他の人が追い付けない程の技術にしちゃった人
そういう人を敬意を込めて僕は「〇〇使い」と言っています。
なので僕が職業柄憧れるとても素晴らしい画を生み出すペンタッチの持ち主は「ペン使い」になります。
素晴らしいキャラクターを次々に生み出し他の作家たちに無意識に刷り込まれる程のインパクトを与える人は「キャラクター使い」です。
かつての僕もこの「〇〇使い」のいずれかになりたくて
いろいろなことに果敢に挑んだこともありましたが、
この「〇〇使い」というワードは自分で名乗るものではなくてその人の偉業とも呼べるずば抜けた才能に対する周りからの称賛であって、自分で名乗る人程胡散臭い感じ満載のワードだと思っています。
ムチャクチャ自慢になりますが
そもそものこのブログを始める原点が
自作のカスタムキューピー作品の制作記録でした。
自分の本業のことや日常生活のことは基本的には書かず
あくまでもカスタムキューピーに関することその制作に繋がることを残しておく場所にしていました。
そしてその過程で作品を投稿していたホビーに関する月刊誌でその編集スタッフより「カスタムキューピーマイスター花丸敏吾」という称号をいただき、初めて「〇〇使い」と言われた感じがして凄く喜んだことがありました。
今は脳梗塞で全く自在に動かせなくなった自身の腕や指をかつての「カスタムキューピーマイスター」のレベルに戻すべく必死に実戦で鍛えているところです。
「松村魂」のソフビ作品に彩色する作業は
基本全て手作業で手塗りです。
少しでも安い商品にするためになるべくたくさんの色を使わずたくさんの手間を使わずそれでもシンプル過ぎないものに仕上がるようにデザインの段階からムチャクチャ思案して制作しています。
それでも実際には
自分で考えていたよりもなかなか上手く手は使えず
彩色どころか原型制作の段階でも自身のイメージ通りに仕上がるのには大変な道のりを歩むことになりました。
もちろんその評価は「ダスティ」の話で書いた通りですが、こんなことはとにかく場数を踏まねばなんともならないことなので現在も壮大なリハビリ作業の真っ只中という感じです。
彩色に関してだと
ずっと参考にさせてもらっている作家さんがいて、
細かい筆使いでソフビの表面に手描きとは思えない模様や文字等描かれる人はたくさんいるのですが
その作家さんはその手元の筆使いの様子を動画で見せています。
かつて自分でも無意識に近いくらい感覚でやっていたその動きを
今はまずは頭で理解しないといけない、イメージを頭に叩き込まないと動き方が掴めない状況なので
(全身のリハビリもそうやって動ける自分の様子を強くイメージするところからでした。)
その動画を見ることが何よりありがたい参考資料でした。
イベントでその人にお会いした際はそのことを説明してキチンとお礼を伝えました。
嬉しいことにたまたま僕の漫画作品を知っていてくれた人だったので現状に至る話を聞いてくれてさらにいろいろ教えてくれたり今も大変仲良くさせていただいています。
その人の筆使いの動画を見て1番思ったことは
経験による自信が作業の筆使いに出ているというところ、迷いの無い一筆一筆で細かい設計図があるわけでもないその模様を凄くスピーディーに仕上げる様は
年末などのニュースでも良く見かける「だるま制作」の作業場のレポートで見事な筆さばきで迷い無く一気に顔を描きあげる職人さんのそれと重なりました。
これこそが迷いの無い筆、迷いの無い線、昔見た少女漫画の大家の先生の繊細な髪の毛を描くあの動き、「技」だと思いました。
僕のような技術を仕事の手段にしていて追求したい理想の「迷いが無い」という考えは、思いついたイメージを澱み無く一気に表現することではなくて、「技」にまで高めた筆使いで一気に描き上げてイメージをそのまま伝える様を言うのだと思います。
自身の修練による自身の「技」に一切の迷いが無いということ。
それがカッコいい❗️
岡本太郎さんの作品然り
イチローさんの野球技術然り
アントニオ猪木さんのパフォーマンス然り
八代亜紀さんのジャズ歌唱然り
です。
以前はそれに近いところまで出来ていたと思っている自分の技術の現状を見るにつけ
100%そのまま復活しないのであるならば
今の現状でなんとかあのレベルに近づく方法を見つける闘いを当分は続ける覚悟の日々です。
「〇〇使い」と呼ばれる日は来るのか?
自分は何使いになるのか?
ちなみに
自分で「〇〇使い」と名乗ることの愚かさを言っている自分自身は自分の肩書きを「漫画家」と言われることに凄く抵抗があり、自分の中では「漫画描き」「漫画使い」の端くれだと考えています。堂々と名乗る機会が無いことが多少の救いになっています。
「〇〇使い」と呼ばれることに凄く憧れます。
そんな偉そうなことでもないんですけども。
僕には二十歳の時に連載デビューしてから
現在に至るまで一度たりとて変わることの無い
作品造りに関する考えがあります。
十代のまだまだ遊んでいることの方が楽しかった頃には
まさか自分が将来自分でイメージした物を
形にして他人様に披露する仕事をするなど
微塵も考えていませんでした。
で、改めて19歳の美大浪人の時間で小遣い稼ぎに
独学で描いた作品が賞を獲得して翌春に上京することになるのですが、知り合いも親戚もいない所でいきなり独りで闘うことになったことで闘い方も知らない僕はまずは自分で自分の為のルールと目標を立てることから始めなければいけませんでした。
まずは自分で描く作品のテーマは
「自分がこの歳になるまでに経験したいろんなこと、特に人生に影響を与えるほどに楽しかったこと。」
を、どんなジャンルであっても巧く落とし込んで
たくさんの人に共感してもらうことに決めました。
実は50歳過ぎた今もその部分はあまり
変わっていません。
小学生の頃に父方の実家に家族で行った際に
現地の書店で買ってもらった『手塚治虫漫画全集』の『レモンキッド』という西部劇の漫画作品。
漫画単行本としては「アトム」や「ブラックジャック」よりも前に触れた手塚作品です。
で後に手塚先生がこの全集を刊行する際のエピソードを
何かのインタビューで知ってむちゃくちゃ感銘を受けて
今の自分の作品造りの柱になりました。
その感銘を受けたことを自分用に
アレンジして今も大事に守っている柱とは
漫画はおやつ、おもちゃはおやつであるということ。
おやつというものはまずは子供の為のものであること。
大人にだって必要なこともありますが
大前提としては子供のもの。
おやつ自体は無くったって死にはしないし
無いまんまでも人生は送れます。
でもあった方が間違いなく心は豊かになるというもので
無いよりはあった方が絶対にイイと思います。
大事なことは子供が美味しいと思ってくれること。
そしておやつにもそれぞれ好みはあるでしょうがあくまでもおやつであって高価で栄養もたらふく抱負なごちそうではないので誰にでも手に取りやすいものでなければなりません。
同じように漫画も
あくまでも最初の対象は子供であり
子供が面白いと思うことが大前提で
手に取りやすく読みやすく、読まなかったとしても
立派な大人にはなるけども
読んだことでいろんな知識が増えたり雑学にしても言葉使いにしても得ようと思えば教科書よりも後々まで記憶に残り続けるものもあり感銘や感動をたくさん受ければ間違いなく心は豊かになります。
大事なのは子供が面白いと思ってくれること。
だから何かを始める入口に約立てるということなら表現としてもやっぱり無いよりはあった方が良いものということ。
おもちゃも同じ
子供のころには男の子女の子とか様々に好みも違うでしょうがどういう物であっても間違いなく誰でも通る道です。
知育の為の玩具ということではなくても
駄菓子屋で売っている駄玩具みたいなものでも
子供には小さな栄養にはなるものでやっぱり心が豊かになる大切なものです。
僕なんかは子供ながらに
自分だけのオリジナルに拘って
自分で何かしらの材料で独自のおもちゃを造ったり
自分で漫画のキャラクターを造ったりもしていたくらいです。
で漫画を仕事にすることになった時も
ずっと拘って「少年漫画」を描き続けました。
漫画はあくまでも子供や少年たちの為のものであるべきだと思っているからです。
どうしても仕事として「青年」以上の読者層の媒体で
作品を発表する場合や漫画以外に露出する際には『花丸敏吾』の名前を使用していたりしました。
(少年向け漫画作品を造る際に
拘っていたことなどは別の機会に細かく書いてみたいと思っています。)
そして現在
ソフビというものを造ることを表現の方法にして
収入の糧にすることになって改めて独学で始める時に
自分の作品造りの考え方として、誰に向けて表現するのか?どういう人に購入して欲しいのか?
ということをずいぶん考えました。
大小の差はあれど出版社が大半の仕事をしてくれて作品造りだけに没頭できる雑誌連載と違って自分で1から造って自分で宣伝して自分で販売しないといけないソフビ造りは、漫画作品と違い途中途中で誰かの意見が入ったり工場での作業工程的なチェックはあっても作品そのものは完全に自分の考えだけで出来上がるのでともすればかなり独りよがりの作品になります。
長く一般商業誌でたくさんのチェックやコンプライアンスをくぐり抜けていくつかの作品を世に残せたことが今も自信になっている僕としては自身の作品に対してのオリジナルな表現に自信もありますが誰のチェックも受けていないことでの独りよがりの表現になっていないかの不安もあります。
しかし毎回毎回そういうことに躊躇していては
その迷いは作品に確実に反映してしまいます。
で、もう一度立ち返るのが
おもちゃは子供のおやつであるということ。
おやつなんだから変に凝ったもので無くても自分の技術に見合ったなるべくシンプルなデザインで手に取りやすく遊びやすく親も安心して購入しやすいもの、
大事なのは子供が面白いと思って手に取ってくれるかどうかということ。
なので現在の1番の悩みどころは
現状のソフビのアートアイテムとしてのブームです。
やはり一応はお仕事としてキチンと成り立たないと
いけないので一定の収益を見込んで作品造りや作品販売が出来ないといけないのですが、通販サイトでの販売にしろイベントでのブース出展にしろまずは子供たちの目に触れるはるか以前にまずはどうしても大人を相手にしなければいけないという状況。
どうしても現状のソフビブームの中で他のメーカーのソフビ作品と比較されてしまうと、というか同じ土俵に並べられても「そりゃ見劣りするわな!」となります。
自信が無いとか売れ行きが伸びないことの言い訳とかではなくて、
「松村魂」のソフビはそもそもすべてを僕が僕の技術だけで形にしていて、金型や成形等の技術的に自分ではどうしても無理なところは業者さんに任せないといけないのでそれ以外のところはなるべく自分の技術や自分のアイデアで進めることでなるべくたくさん世に出回る為になるべく安い商品にしたいと思って制作しています。なので高くてもたくさん集めたいコレクターの人に対してはあまり引っ掛からないものを造っている自覚はあります。
安いものをと言っても手を抜いているわけではなくて
下手くそなりに自分の今出来ることを最大限に頑張っています。手に取りやすい商品、ガシガシ遊んでもらいやすい商品、子供に安心して大人が与えることが出来る商品、をこれからも考えて作品造りは続けていくつもりです。
「松村魂」のソフビは単品で8000円を越える商品はありません。現状のいろんな費用の高騰で制作費が
かかった『地球の化身イーラス』のカスタム作品で7500円が1番高い部類です。
今年に入って新作を2つ制作しましたが
去年の造り始めの打ち合わせの時期からだけでも
急ないろいろの値上がりで当初の予定よりも制作費がかかってしまい、真面目に商品の値上げを検討しましたが、現状数百円くらい乗せるくらいが精一杯です。
そもそもアートソフビブームの中でうちの商品はまだまだ他に肩を並べるまでには正直至っておらず
まだまだ認知度を上げることの方が優先事項です。
うちのソフビはアート作品ではなくおもちゃなんです。
コロコロコミック等で漫画作品を描いた漫画描きが自分で造ったオリジナル商品です。
そもそも自分でも以前はソフビを購入していた立場でしたし今もお気に入りを見つけたら買う側です。その立場から今のブームでたくさんの人が造る側に増えてきて多種多様の作品が増えました。すごく凝った造りのもの色や素材に凝ったものかわいらしいものがものすごく増えています。
そんな中で自分たちの作品が他のメーカーの1個でも売れたらまずまずの儲けが出る少々高価でも買ってもらえるアートな作品を造るところまでには足りないところがたくさんあることもわかってますし、いつまで経っても商売として成り立たないと「造る」という僕の基本的な生き様自体が成り立たないということわかっていますので今はとにかくいろいろむちゃくちゃ頑張りどころです。
あくまでも漫画は子供のおやつ
おもちゃは子供のおやつ
しかし、おもちゃも漫画もおやつも子供に
良いものを選んで与えるのは大人。
それを子供の為に真剣に造っているのも大人。
自分が子供のころに生き様にまで影響を及ぼしたものを今大人になった自分が真剣に考えて造り真剣に提供していくということ、子供の頃に受けたものをなるべく正しく澱み無くなるべくそのままの魂でお伝えしていくということが「松村魂」の作品造りの基本的コンセプトでございます。