「漫画職人松村努の魂のブログ❗」
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改めて書き記す僕が携わる「漫画」と「おもちゃ」とは。

ずいぶん前にも書いたことを

改めて書こうと思います。

自分自身の芯のことなので何ヵ月か毎の自分の中での確認という作業も兼ねています。


大人になってもマンガを読んでいると親から

「いい歳していつまでマンガなんか読んでるの!」と

何回も侮蔑されました。


ヒーロー特撮番組を見ていても

同様に「いい歳していつまでそんなものを見ているの!」という感じです。


漫画を仕事にすることになった時にも

「いい大人が漫画で飯が食えるのか!」と

ただしここに関しては未だに会ったこともない親戚に

道半ばで挫折した人がいたということもあったからなんですが。


僕たちの世代の親の世代、その世代と共に生活をしている世代の方々の中には令和の現在になっても未だに

「漫画は子供のもの、ヒーロー特撮番組やアニメ番組は子供のもの、ましてやそれに付随するおもちゃも子供のもの、それを卒業出来ない大人は社会不適合者だ!」という考えの基に

「世間体もあるのでうちの家庭から社会不適合者を出したくない!」という風に侮蔑します。


「卒業」ってなんですか?


何歳になっても一回好きになったものをずっと好きでいることがダメですか?


漫画やおもちゃだからダメなんですか?スポーツならいいんですか?そんなこと誰かに決めてもらうことですか?


でも大変なのは

世間一般の大半はまだまだそういう人ばかりということなんです。

例えば現在自分が取り組んでいる「ソフビ制作販売」にしても 「おもちゃを売ってるんですか?どこのお店で買えますか?そこのヨー○ドーで買えますか?え?ないの?」とか 「いくらで買えますかコレ?え?4000円?コレで?高くないですか?おもちゃでしょ?800円くらいなら買うかな?」

な、やり取りを実際に何回もしたことがあります。


漫画もそうですが、ソフビの制作販売も

世間一般の大半の方々には “その作品あるいは商品”が

どういう流れで一般の人の手元に届くのか知らないですし基本的に知ろうとも思ってないでしょう。

だから一生懸命頑張ったところで作品がちやほや持て囃されるのはそれを好きで集まってくれる人たちの中でだけでのことです。


でも本当に自分が考え制作した某かの作品販売でキチンと仕事として一定の収入を得る為にはそういう一般の消費者の方々に向けての認知ということを考えないわけにはいきません。一過性のブームで集まった人たちに一生お客さんでいてもらうことは不可能だからです。


で、本題に話を戻すのですが、


そうです。「子供のもの」です。

「子供のもの」だからと言って子供しか関わってはいけないというのはちょっと暴論過ぎやしませんか?

大人になる為に一旦卒業する必要があるとしても、

じゃあ言わせていただきますがその「子供のもの」は誰が作って誰が世の中に発売しているのでしょうか?


「子供のもの」あるいは「子供の為のもの」だからこそ

大人が頭も身体もフル回転で形にして世に出しているということなんです。


その為にまず自分が子供だった頃のことを思い出しながら今の子供の周りの状況を考えながら一生懸命完成させて世に出した「おもちゃ」や「漫画」でなくてはいけないと思っています。


小学生の頃に初めて「手塚治虫先生の漫画」と意識して手に入れたのが手塚治虫漫画全集の「レモンキッド」です。それから漫画というものと漫画家という存在への見方が変わりました。

そしてそのあと数年ことある毎に手塚先生や他の先生方の作品や漫画ということへの考え方を観たり聴いたりして、さらに高校生の時に観た手塚先生のドキュメント番組で僕の考えは1つの塊になって還暦近いこの身体を動かす原動力の1つになっています。


「漫画もおもちゃも子供にとっては“おやつ”でいいのです。おやつは生きていくのに絶対に必要なものではありません。無くてはならないものではありません。無くても全然困りません。知らないまま一生を終える人もいるでしょう。だけど子供の成長過程にはあった方良い。あった方が間違いなく心が豊かにはなります。身体の成長には役に立たなくても心の成長には役にたつ、そういうものであって欲しいしそのくらいのもので良いと思っています。だからなるべく子供や親の手の届きやすいものでなければいけないと思っています。だから何も大の大人があれやこれや目くじら立ててどうこう言うほどのものでもないでしょう。」


というのが僕が考える「漫画」や「おもちゃ」に対する考えです。


だからこそ大人が一生懸命考えて手間をかけて子供たちに届けなければならないと思っています。


「漫画」も今や日本が外国に誇る「アート文化」の1つになっています。日本の今時のソフビブームも「アート文化」としての面が強く印象を与えてますが、僕はあくまでも両方ともエンターテイメント主体の娯楽の1つで“おやつ”感覚で気楽に楽しむものであった方がいいと思っています。

「漫画」はお気軽に世界観に没頭してもらい「おもちゃ」はガシガシ“ごっこ遊び”を盛り上がってもらえば本望です。

その結果壊れたり破れたりして破棄されてしまい形としては残らなくても記憶の中にはしっかり残っていていつまでも良い思い出になっていればその方が嬉しいです。



「松村魂」はその考えでこれからも「アートではない娯楽エンタメ漫画」や「アートではないガシガシ“ごっこ遊び”ソフビ」に全力で携わっていきたいと思っています。というお話でした確認作業終了。







完結という完成。

前回書いた「パッケージ」という考え方にも

通じる話。


“漫画”のことでの最近気になった話。


先日、長く続く大人気の民放のトークバラエティー番組で司会の超大物お笑い怪獣がゲストの漫画家との会話で

まず漫画家の方が「ONE PIECE」という作品が

「名作」かどうかということを話し始めました。


司会のお笑い怪獣はその作品の大ファンで

「これだけ長く続く大人気マンガは絶対に『名作』に

決まっている!」と言い

その漫画家は

「漫画が『名作』かどうかは完結してからだ。」

と返しました。


そして続けて

「ちなみに僕の漫画作品は今のところ全て見事に完結させているので。僕はうまく作品を完結させることが得意な作家です。」と言いました。

すると司会は

「人気がなかっただけだろ!だから長く続かなかっただけだろ!だから名作と言われないんじゃないのか?」と。


しかしその作家さんの漫画作品も人気があってアニメ化されたものもあります。知名度の違いでとんでもないことを言われてました。(笑)


さらに漫画家は

「あれだけ長く続くと世界中の読者から最終回などの展開をいろんなパターンで予測されてしまう。それを上回りさらに膨大な伏線を全て回収して完結させることは下手をするともう無理かもしれない。」と言い、

「もしも万が一完結の段階でそれらに失敗して読者をがっかりさせるかあるいは完結出来なくて未完で終わりということになっても『名作』と言えるのか?」かと

問いました。

しかし司会は

「名作は名作だ!」と譲りません。


例えば

映画の話だとして

まあまあ面白く途中まで観ていた作品が

ラストでとんでもないオチで終わりそれまでの高揚感が台無しになってしまった場合その作品は「名作」だと

素直に他人にオススメできるか?

あるいは作品が通常の公開作品よりも上映時間が長く

何かの事情で最後まで観なかったということでラストがどんなシーンで終わったか観てなかったとしても

そこまでの展開が良かったので「名作」と

他人にオススメできるか?


やはり最後の最後まで目が離せなくて

そのままのテンションでラストを感動のシーンで閉めて

一旦高揚感を抑えた数日後でもやはりもう一度観たくなるような作品、そして内容がもうしっかり理解出来ていても初回と同じように何回観ても楽しめる作品。

それが「名作」なんじゃないかと思い ます。


話を連載漫画作品に戻すと

確かに「名作」ということの条件に“人気”というものは1つの目安としてはアリなのかもしれないですか、

読者の指示の数は必ずしも「名作」の証にはならないと

思います。


人気が無くて突如連載の打ち切りが決まったとしても

キチンと形の上では大変うまく完結させて1パッケージとしてまとめられた作品にも多くの「名作」があります。


漫画作品は基本的には読み切り作品が通常作品。

希にページ数が多くなってしまいその都合で分割して掲載される場合もあり(雑誌には毎号編集会議でそれぞれ連載作品のページ数が決まります。)その結果一応は短期連載という形にはなったとしても扱いは読み切りと変わりません。そこでキチンと完結しているからです。


また別のテレビ番組で

レジェンド漫画作家さんの代表作を技術的にも内容的にも検証して作家ご本人が解説してくれるということを

やってました。


その作品は高校生の頃の僕が

まだまだ漫画に関しては“読む”側の割合が多い立場で

同級生の漫画研究会の友人に薦めてもらった作品

「童夢」という単行本一冊にまとまったSFホラー漫画作品。


それまでの漫画作品にはなかった技法を用いた

画期的な作品で発表当時漫画に携わる人や多くの漫画ファンに多大な影響を与えました。


当時の僕(まだまだ全然漫画を仕事にすることなど1ミリも考えてなかった)にでもその作品の革命的な凄さは理解出来るほどでした。


しかしそんな凄い作品にも関わらず30年以上経った現在でも新作続編が作者が現役でいるにもかかわらず発表されていません。

編集部の方でも続編を描かせようという動きはあったと思います。

でも続編は存在していません。

その理由は30年前の単行本で見事に完結していて

続きの描きようがなかったからだそうです。

万が一にも同じタイトルで描いたとしても

それはもう別の作品になってしまいます。


当時のお話を聞くと

単行本一冊にまとめるのに全話を連載形式で数年かけて

描き上げたということでした。

そのくらい一冊分描き上げるのにエネルギーが必要だったのだと思います。

その情熱はモノクロのペン画の作品がまるで1本の映画を観たかのような錯覚を感じるくらいのものに感じます。


その作品は連載当時も話題にはなりましたが

単行本になって発売されてさらに話題になって数年かけて人気が不動のものになり今や日本を代表するレジェンド漫画作品になりました。単行本は今もサイズや紙質を変えたりして世に出ています。


作家はインタビューに

あの作品は作品の為の全てを注ぎ込んだ一冊であると、

まさに完結したベストな一冊のパッケージであるということを言ってました。


やはりここでも「パッケージ」という考え方が

あったということを感じて自分の考えと同じような考えをこんな凄いレジェンドも考えていたことが嬉しく思いました。


「パッケージ」された作品とは完結している作品のことで、完結して初めて完成される作品のこと。

作品の評価はこの「パッケージ」されて初めて為されることじゃないかと思います。


完成されてない段階での評価はあくまでもその段階での評価ということもあるかもしれませんが

続きを期待させることはある意味評価の1つではあります。


本物の作品の評価とは作品を全て見終わって「あ~面白かったな~!」と「また読みたいな~!」あるいは「この作品はずっと大事に取っておこう!」みたいなことを言われることだと思います。


ということはやはり完結して完成させてからの評価で

その作品が名作かどうかは考えるべきだと僕は思います。


そういう意味で言うと


僕の漫画作品は全て完結していますし

一冊にまとまったものもありますが

「名作」と呼べるものはあるのでしょうか?

こればかりは自分で決めることではないので

読んだことのある方に聞いてみたい気持ちは

ものすごくあります。






「パッケージ」という考え(改)。

(いつも通り思いつきの勢いで書いたものなので読み返して少々分かりにくかった箇所を直してみました。)



漫画の単行本に限らず 本の類いは全て紙のものが好きです。


今や本は電子書籍が全盛ですが

僕はあえてかさ張る紙の書籍が大好きです。

パソコンやスマホに読みたい本を何冊もダウンロードして持ち歩き好きなタイミングで読むということは

確かに便利だとは思います。

しかし僕には感覚的に本棚を持って歩いているような

この便利さがどうしても馴染めない理由があります。


僕は昭和43年生まれです。

令和7年、西暦2025年という今年を昭和で数えると

昭和100年ということになり僕は昭和の前半生まれという衝撃的な事実に愕然とします。話が少し逸れました。


その昭和真っ只中に青春を過ごした僕が昔から

ものすごくこだわる考え方の1つが『パッケージ』という考え。


「パッケージ」と言えば簡単に包装された荷物などのことをイメージすると思いますが、僕がここで言う「パッケージ」とは少し違います。


例えば昔の洋楽は

ミュージシャンがまずアルバムという複数曲収録した

LPレコードを制作してそれをあちこちで売る為の宣伝の為に収録曲をコンサートで披露して回り人気の曲はシングルカットしてコンサートで訪れた地域のラジオやテレビで流してもらう、みたいな感じで作品を作り続け

邦楽の方はというと

まずはシングル曲を作ってテレビやラジオで流して

宣伝して発売曲が増えてくるとLPでしか聞けない曲を足してアルバムとしてLPレコードを発売してコンサート公演をします。


そしてアルバム、シングルとレコードの中に収録曲の情報や歌詞、ミュージシャンのプロフィールに制作者側の情報、ジャケットのデザインまで拘りに拘って

自分たちの個性の塊を世に出すということで生まれた1枚の作品。

僕の仕事の「漫画」だったらば

週刊や月刊の漫画雑誌で連載を重ねて行くうちに

まとめて読みたい読者さんの為にサイズに応じた

ページ数でまとめた単行本を発売します。

この単行本という1冊。

映画などは劇場公開が終わってしばらくして

家などで改めて観たい人の為にビデオやDVDやBlu-rayにして販売する1枚。


この1つ1つを僕は「パッケージ」という括り考えているということです。


例えば僕の身近な漫画の単行本は

もちろん連載順に何話分かをまとめているのですが、

単純にそれだけではなくカバーは表紙背表紙裏表紙、前後の見返し、本体の表紙背表紙裏表紙、目次、あとがき、オマケページ、連載時に広告や別カットが入っていた部分の描き足し、時間に余裕があれば連載時に直しが間に合わなかった修正箇所の描き直し、(紙の質に至るまで拘る人もいます。)等があって

いわゆる月刊、週刊漫画雑誌の1作品から単独タイトルの書籍に生まれ変わります。音楽で言うところの単独アルバムという感じです。

この1冊でとりあえずその作品の収録内容に関する全ての情報と全ての手間とお金を払い購入してくださる読者の人ヘの出来得る限りのサービス精神とも言える情熱を詰め込んで頑張って持ち歩けるサイズの単行本という1冊に

まとめたものを「パッケージ」ということと考えています。


この「パッケージ」1つにこの作品の全てが詰まっているというもの。


例えば

自分の好きな音楽ばかりを編集してカセットテープにダビングして曲名やミュージシャンの名前などまで自作のカセットレーベルにレタリングシールにまで拘って

自分オリジナルのカセットテープを作っていたり、

自分であちこちで撮った写真や動画を編集して文字通り「アルバム」を作って収集したりと、

誰にでも経験があることにも、この1本に、この1冊に想いを込めて残すということならわかってもらえると思います。


中には度が過ぎて理解できないものや他人に迷惑をかけたり不快感を与えるものもあったりして結果的に良いもの悪いものいろいろあったりしたりしますが、

昔から「パッケージ」という概念を僕はずっと意識していて「このDVD1枚にあの時のワクワクして映画館に行った時の思い出込みで大好きな作品が完璧にまとまっている」という考えがすごいことだと思っているのです。


他にも漫画や映画や音楽以外にも語ると長くなりそうなので別の機会に

続きを語ってみたいですが。


改めて僕の「パッケージ」という考えは1つにまとまって行き来する荷物や物体のことではなくて

制作者の個性をこれでもか!と詰め込んでお手軽に手に取ってもらえる為の工夫の全てを投入して、その1つで完璧に完結している、この1つに作品の全てが詰まっているという「拘りの魂の塊」のことを言いま


今現在

僕の創作活動の第1位であるオリジナルキャラのソフビ制作販売も作品造りという点ではやはり同じ思いで取り組んでいます。


「この1つに作品への情熱と思いが全て詰め込んでいる」


完成までの情熱、キャラのデザイン、作品の大きさや形の拘り、カラーリング、ヘッダーや袋のサイズ、価格に至るまで全てに今出来得る全力で取り組んで世に送り出すということ。


そしてソフビに対する思いとは

手に取ってくれた人、手に取ってくれたお子様が

いつもいっしょに遊んでくれる身近な「おもちゃ」であるということ。ものすごく極端なというか昭和の昔ながらの言い方をすれば、「誰かのともだち」になるようなものを世に出すということでしょうか。


なかなか追求し甲斐がある道です。










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