「漫画職人松村努の魂のブログ❗」 -4ページ目

日本人とキャラクターという存在。


日本にたくさんのキャラクターがいて

他の外国に比べても圧倒的に数が多く

外国の人たちにも人気なのは何故なのか。


何故日本人がそれほどまでにキャラクターを産み出すことに長けているのか?


以前にも僕の「怪獣」という存在の考え方について書いた

八百万の神、妖精

妖怪

怪獣

という解釈は

そもそもの日本人のDNAレベルでの

キャラクターという存在との距離感の近さに関係していることだと思っています。



八百万の神々とは仏教が日本に伝来して来る以前の

日本にたくさんあった信仰でそこかしこに神さまや

精霊みたいなものが当たり前にいて普通の生活で人間と共存していたものだという考え。


木や石や山や川や花にも命があって

何かにつけて話しかけていた頃にはそれらの存在と

いろんな形でコミュニケーション出来ていたとする

いわゆる「日本昔ばなし」な世界観。


仏教が日本の信仰宗教として

取って変わってからは人間とそれら精霊、八百万の神々との関係も変わりそれらはどんどん人間に存在をアピールする為だったり環境の変化に対応できずに凶暴化して

妖怪になり怪獣に発展するという僕の考えは

日本に独特の「怪獣」という概念が育つ基礎になっているものだと思っています。


同じように

日本人には太古の昔から

精霊や神々との距離感の近さに慣れ親しんでいて

それを何か形のあるものに投影して安心感を得るということは当たり前なことだったのだと思います。

それは言い換えれば自分で自分のお気に入りキャラクターを創り出していることということではないでしょうか。


なのでそういう誰しもが簡単にキャラクターというものを創造出来て簡単にそれらを受け入れることが出来るということになっていったのではないかと思います。


なので難しく考えなくても

必ずしも何かにインスパイアされなくても

勝手に何かの影響を受けていない人でも簡単にオリジナルなキャラクターをゼロから創造出来てその存在感をしっかりアピール出来るのだと思います。


ものすごく雑に言うと、

ある女の子が授業中に自分の消しゴムに目と口を描いて

「消しゴムちゃん」と言ってしまえばもう新しいキャラクターの誕生です。

その子が何に影響されて育ったとか

何かにインスパイアされたとかいうことでは

なくて「この子が消しゴムちゃんです😆」と言えば

もうその子の中では「消しゴムちゃん」は命を持って喋ったり何かしらのリアクションをするキャラクターになります。


そのくらいのことなんです。


ウンウン大人が頭をひねって考えて

思いつく人気の出そうな要素を混ぜ込んだ挙げ句に

結局どこかで見たようなものになったそれをを自慢気に「あくまでも私のオリジナルキャラクターです!」ってやるようなものでもないと思ってます。

もっとシンプルで誰とも被らないものは

ともすれば異質なものに捕らわれるかもしれませんが

そこから残っていったものはまさしく市民権を得た

完全オリジナルキャラクターになります。


多数のビジネスとしてのキャラクターという存在や外国でのようなビジネスコンテンツとしてのキャラクターという著作物は商売の手段としては1つの考えとしてアリなのでしょう。

だからといって商売目的のキャラクターが邪念に満ちているということでもなくて、

子供が突然描いた落書きのような勢いで誕生したキャラクターは子供が突然描いたから純粋だと言っているのでもなく、どちらも同じ人間が創造したキャラクターであることは変わりないのですが、

考えた人の中でのキャラクターとの距離感や考えた人の中での存在感というか誰かに共感してもらいたい願望込みで考えたキャラクターと単純に自分の為だけに描いたキャラクターとの描いた人の中での温度の違いということが日本人のキャラクターに対する許容の深さに関係していると思います。


日本人の産み出すキャラクターは

そういう身近な存在、命を吹き込まれたいろんな形のものであるから誰にでも産み出せるし愛着も持てるし

常に側に置いておきたくなる存在なんだと思います。

スターではなくて友達と近い存在、距離感がキャラクターが長く愛されるものになるということ。



以前にも書いた

「漫画やおもちゃは子供のおやつ」という考えで

キャラクターを創造している僕からすると

キャラクターは常にどういう形になったとしても

誰かの側に寄り添うもので寄り添うことで持ち主に安心感を与えるものであって欲しいと思ってます。


現に世の中の人々をたまに右往左往させるキャラクターの誕生ってそういうものが多いと思います。


日本人にはそういうものがずっと昔から

代々備わっているのだと思います。

その能力をうまく扱える人が生きたオリジナルキャラクターを創造できるのだと思います。

そもそもの要素は純然たる日本人ならDNA的に備わっているということで受け入れることも容易く

多くの共感を得られるのだと思います。


最近になってようやく

そういうことをキチンと理解してくれる外国の人が

増え始めて日本の漫画やキャラクターがどんどん進出しているのだと思います。


日本人はどんなものにも命を吹き込んで

キャラクターを産み出す稀有な種族だということなんです。だから日本には他の国よりも圧倒的にキャラクターに溢れているんです。


という漫画描き特有の乱暴な結論でした。









たぶん僕だけの変な拘り。


漫画描きでのお仕事の際は
人体のデッサンというか自然なポーズというか
顔と身体のバランスというか
とにかく大変だったんです。
特にスポーツを題材にした作品なんかは
その題材になるスポーツによって
登場人物の体型も筋肉のバランスなんかも
違ってきます。

それ専門の勉強をしていたわけではなかったので
実戦で身に付けることが大変でした。

そして
ソフビをオリジナルデザインで制作することに
なってからはまた違う考え方が芽生えてしまって
今はそのことでなかなか頭の切り替えが大変な状況です。

というのも
まずオリジナルデザインソフビに挑戦することになって
最初に選んだ題材が『怪獣』だったのですが
最初はまさか自分で原型まで造ることになるとは
全く考えてなかったのでとんでもなく自由な
デザインの怪獣ばかり数十点用意しました。

僕が以前から思っていたことなんですが
たとえばウルトラ怪獣に『レッドキング』という
キャラクターがいるんですが
体型のほとんどがいわゆる「怪獣」としての
見事なデザインになっていて頭の小ささも体型としてのバランスが素晴らしいと思っていたのですが、
平成になってゲームとしてのキャラクターの変化なのか、ソフビにもなったそのアレンジキャラクターは腕の部分が巨大に変化して「拳」が巨大な溶岩みたいなものになっていました。

それを見た時に
今まで感じてなかった違和感が強烈に
沸き上がり、それからずっとその違和感が拭えない状態が続いています。
その巨大な「拳」がいわゆる人間の「グー」なんです。

「ここまで立派に怪獣を表現していたのに手が人間と同じ」ということに、もうその怪獣を怪獣として見ることが出来なくなってしまいました。

人が着て演じる「着ぐるみ」ということでの制約とか
言ってしまえば身も蓋もなく、
今時の技術ならば簡単にクリアできそうな
小さな問題点なんですけども一旦気になりだしたら
いろいろ気になり始めるのが僕の悪いクセ。

ウルトラ怪獣などのデザインを始めとして
現在たくさんある「ソフビやキャラクター商品になることが多いキャラクター」などは怪獣、宇宙人、ロボットいろいろあっても基本的には「地球人体型」に基づく体型がベースになってデザインされているものばかりです。

たとえば
今時のコンプライアンスの問題で
この体型をベースにしないといけないとか
いろいろうるさいことへの配慮が無いと
テレビ番組では使えないとかあるのでしょうか?

たとえば必ず両腕は肩のところから付いてないと
いけないのでしょうか?
なぜ別の天体から来た生物が地球人と同じ体型なのでしょうか?
怪獣には指の数が人間と違うものもありますけど
そもそも指が必ず付いてないとダメなのでしょうか?

いろいろ言い出したらキリがない。

以前にもどこかの記事で書いた
「怪獣だから尻尾がないとさあ…」と
とあるソフビ販売店の店主さんに言われた
妙な意見を聞いた時の違和感のように
そもそもこの世に存在しない生物をデザインするのに
なんでそんな奇妙な既成概念で測られなければいけないのでしょうか?

前回にも書きましたが
ゼロから考えてデザインするキャラクターは
基本的に何者とも被らないものでないと全くのオリジナルとは言い難いと思っているので
人間体型がベースであることも
何かのモチーフをそのまんまトレースしたものであることも無くて良いと思います。

もちろんソフビにするということでの作業工程での配慮や、販売して一般のお客様に購入していただくということでの受け入れてもらいやすいデザインでないといけないという大前提はあるにせよ、自分が創りたいオリジナルの世界観を表現するキャラクターはなるべくそういう既成概念から少しでも外れたものにしたいという
誰でも思うけども実践していくにはなかなか大変な
拘りをこれからもテーマにして「松村魂」のオリジナルキャラクターを産み出すことに感性を磨いている今日この頃です。



ゼロからイチを創るという命懸けの作業。

あくまでも
漫画描きという仕事をしている僕目線の
考えなんですが、

漫画描きを生業にする人の中にもいろんな形がありまして、画力は素晴らしいんですけどもストーリーやキャラクターのアイディアを考えるのがイマイチだったり
ストーリーは凄いものを創るんですけども
画力のクセも凄かったりと様々で、

ストーリーやキャラクターの想像は
原案をいただいたり原作者を立てれば済みますし
画力のクセも読者の好みに合致すれば
個性的な作品として認知されます。

しかし大半の漫画描きの仕事は
キャラクターも設定もストーリーも画力も
1人で全て賄えないと1人前の作家とは認められません。

(もちろんこれは作品の創作での部分ということですが、
さらにその作品を編集部や雑誌社に売り込んだり周りに宣伝したりと他にもたくさん自分でやらなければいけないことはあるんです。)

なので
漫画描きとして仕事をしている人は他の作家の作品と
いかに違う世界観の作品を創って自分の作品を世に残すかということに日々命を削って創作活動をしています。

一般の人でも簡単に自分の考えを世界に発信出来る令和の現在とは違って、自分の世界観を世に出す為に少ないその機会を得る為の死ぬような闘いをくぐり抜けなければいけなかった昭和の末期に10代で世に出た僕の場合は、デビューの状況に恵まれた分なんの後ろ楯もコネも無い丸裸で闘わなければいけないスタートでした。

数年間闘って
それなりの仕事量を頑張って
それなりの結果も残した頃に得たものは
世界的にも人の目に触れる超有名な一般商業漫画誌で
何本もの作品を発表させることが出来たということ、
当時からかなりコンプライアンスが厳しかった
少年誌、幼年誌で単行本が出せる量の連載が出来たこと
受賞には至らなかったですが小学館漫画賞に推薦してもらう話まで出ていたこと等、
漫画の制作に関しての自分の実力が
それなりに付いたという実感と手応えから来る漫画描きとしての自信です。

それは発表出来る場所でのルールを守りつつ
自分の世界観をゼロから創ることが出来るということへの自信とまだまだ小さい漫画描きの「創作活動の核」みたいなもの。

その小さい「核」みたいなものが
自分の作品を創る際に誰に対してどういう感じで受け取って欲しいか、ということを大前提にして
全くのゼロから誰のアイディアとも被らない
それでいてたくさんの人に共感される作品やキャラクターを創ることでさらに育ち、すごくカッコつけた言い方をすると「ブームには乗っかるものじゃなくて自分の考えた作品で作るもの」という作家根性みたいなものになって来ます。
僕の知る範囲ではありますが大半の漫画描きの人はこういう気持ちで作品制作をしています。

とはいえ
なかなかみんながそんな機会に恵まれるわけもなく
全くのオリジナル作品を発表出来ることは本当に
少なく、その機会を得るまでは業界で生き残る為のお仕事を続けて自分自身の理想との葛藤で自分との闘いの日々を送る人がたくさんいます。もちろん僕もその1人ですけども、

結果
身体を壊す人、漫画描きを辞める人、異様なものにすがってしまい抜け出せなくなる人、最悪自ら命を絶ってしまう人、僕が知っているだけでも数十年の間に何人かの人でそういうケースも見てきました。

そのくらいゼロからイチのオリジナルを創るということとそれを世に出すこと、それが人がら支持をいただくことは本当に大変なことなんです。
だから作家さんは作品に対する愛情や思い入れもまさに自分の子供のように大事にしています。
漫画描きにとっての漫画作品は売れる為の手段ではなくて、自分が漫画描きとして世の中にいくつ自分の世界観を残せるかという挑戦を自身の魂を削って形にしたものだと思っています。

流行りのものに乗っかって
器用にヒット作品を出して名前を知らしめることに成功する人も中にはいます。漫画作品以外でもたくさんあります。
自分の世界観を形にすることよりもまずは名が売れる方が優先、まずは椅子取りゲームに勝ち続けることが大事という考え方はアリはアリな話なんでしょうが、少なくとも僕が勝ち抜いて来た場所ではそういう人は誰からも敬われません。
僕のいた場所では器用に立ち回ることよりもいかに不器用でもすごいオリジナル作品をたくさん創り出すかの方が評価される場所です。結果活動期間的には短期であったとしても、そうして残した作品はどれだけ時間が経ってもずっとファンに支持され続けていることで闘い方は正解であったと証明されています。ある意味売り上げや一時のブーム的なものよりも個性的な才能の方がやっぱり評価される感じです。

なので
僕たちもそういう作品やそういう作家さんを
無条件にリスペクトします。

大事なのは誰かの作った道を真っ先の1番乗りで
道幅いっぱいに闊歩するよりも道を造ることの方が
僕には理想的なことだし、せっかく漫画やソフビを通して自身の世界観を形にするお仕事をさせてもらえるならば可能な限りそこを追求しなくてどうすんだ❗️と思ってます。

今本当に多いのは
そういう勝ち抜いて来た作家さんの作品を
リスペクトも無しに作品世界の上澄みだけを
温めた牛乳の膜くらい薄っぺらく掬い取って
利益を上げようとする人が素人玄人合わせてあまりにたくさん増えて来て本当に創作活動の妨げになっていることが目に余ります。

既成のものの良いところだけ足して
さも自分のアイディアという作品を創って世に出すことになんの罪悪感も無い人がウケていて「とりあえずウケたもん勝ち」な態度で作家気取りはあまりに見ていてイタイです。そういう人に限ってそもそもモチーフに選んだ作品の本質すら理解せずに簡単に自分勝手な解釈を展開する人がほとんどです。

既成のアイディアを足したりアレンジしたりすることは
アレンジャーやプロデューサーとしてはアリなんでしょうが、ゼロからイチを産み出して作家さんが形にしたものを安易に自分のアレンジを加えて自分の作品にするならキチンとモチーフに対するリスペクト、創った人へのリスペクトは誰が見てもわかるように表現すべきです。

「お借りしている」という感謝の気持ちの無い
イイとこ取りの作品はただのパクりです。
時間が経って罪悪感が出てくる人はまだまだ良い方で
大概の人は罪悪感どころか開き直りが酷くて
大変です。

全く理解できません。

作品制作やキャラクター制作は常に自分自身へのチャレンジです。チャレンジは自身の力で乗り越えないと意味がないと思います。
僕は美味しいパフェを作る人ではなくて
美味しいパフェの材料のどれかをを作る人になることの方がすごいと思う漫画描きです。