相手から頼まれる場合もあるし、自分で勝手に良かれと思ってやることも。
相手が自分にとって大切な人であればあるほど、
私はお世話癖…お節介癖が出てしまいます。
私はお世話癖…お節介癖が出てしまいます。
おまけにお世話を焼いたことで満足して終わればいいのに、
つい大好きな相手の喜ぶ顔、感謝の言葉や態度を期待してしまいます。
そしてその期待が裏切られた時の落ち込みようたるや悲惨です。
そんな自分がすごく情けなくて。
イギリスに行ったばかりの頃、
物乞いをするホームレスの人たちに
コインや食べ物を恵んであげる人の多さに衝撃を受けたことがあります。
物乞いをするホームレスの人たちに
コインや食べ物を恵んであげる人の多さに衝撃を受けたことがあります。
日本ではほとんどの人が見ぬふりですから。
敬虔なキリスト教徒のある友人にその話をすると、
黙って子供用のイエスキリストの本を私に貸してくれました。
それには、人に何かをしてあげることで自分自身の罪が償われる…
と言った意味のことが書かれていました。
お返しやお礼などなくても善行は充分報われているということでしょうか…
素晴らしい考えだし、そんな風に自己完結できれば理想です。
でも私はなかなかそこまで悟れません。
やはり相手の喜ぶ反応がみたいし、感謝もされたい。
自分が注いだパワーと同じ位の大きさの気持ちや態度を
私も相手から感じたいと願ってしまっている時があります。
それって実に子供じみているし、
ましてやこちらが勝手に世話を焼いたのであれば、たとえ良かれと思ったことでも
相手にとっては重過ぎて、単なるありがた迷惑です。
現在、ある団体のボランティア活動に携わっていますが、
この活動を通して素晴らしい仲間に会え、たくさんの感動をもらっている実感があるためか、
誰かのためにやってあげているという感覚は皆無です。
この活動を通して素晴らしい仲間に会え、たくさんの感動をもらっている実感があるためか、
誰かのためにやってあげているという感覚は皆無です。
むしろ自分が多くをいただいていて、この活動に携われたことに感謝する気持ちの方が強いです。
個人的に何かをしてあげた時も、こういう発想に切り替えられたらといつも思います。
大切な人に関われただけで幸せなんだと、もっと言えばそこにいてくれるだけでいいんだと…
自分をいつも支え幸せにしてくれる人なんだから、
お世話を焼くのはそのお返し、
だからそれに対する更なる見返りは望むべきではないと。
はぁー…半世紀生きててもまだまだ未熟です。


































































