裏表紙。

 

 

目次。

 

【第32回ヒューマンルポルタージュ熊沢良尊“サラリーマン駒師”奮戦記】

何故か熊澤では無く『熊沢』表記の謎。

元「駒づくりを楽しむ会」の仲間だった酔棋さんでは無く

文&写真は鈴木義範さん。

たかがサラリーマンの余技の認識で取材したので
ビックリされた模様。

 

これまで19年間(1980~1993年)で

80~90組は作りました。

奈良県大和郡山市の中心部から車で数分の閑静な住宅街。

敷地は235平方メートル。

5LDKの二階建てに

1)尚子夫人、

2)会社員の長女

3)子息

4)大学3年の次女

との5人暮らし。

前庭に6畳ほどのプレハブが建っており、

そこで駒木地を作る。

自宅1階の8畳の一隅が仕事部屋。

 

熊沢さんの名刺の肩書は

「NSGインフォメーションシステム(株)工場システム部部長」

いかにコンピュータを道具として有効に活用するか、

その仕組みとか構想を作り上げるのが仕事。

黎明期のシステムエンジニアやん(笑)

 

※1986年日本板硝子情報システム株式会社設立。
日本板硝子株式会社と取引会社間のオンライン受発注システムの構築、
取引店、ガラス・サービス・センター、加工拠点会社のOA化支援を目的
1987年エヌ・エス・ジー・インフォメーションシステム株式会社として分離独立。
1994年4月日本板硝子情報システム株式会社と合併して
日本板硝子情報システム株式会社に。
1994年8月株式会社パティオスとして分社独立。
1997年色々合併して日本板硝子ビジネスブレインズ株式会社に。
2003年株式会社NTTデータビジネスブレインズに社名変更。

 

1961(昭和36)年大阪市立都島工業高校電気科卒業

日本板硝子(株)大阪本社管理室設計課配属

1989(昭和64)年、情報システム部が分社独立して

NGSインフォメーションシステム(従業員120名)が

創設され、出向に。

1990(平成2)年に総務部長に。

1993年4月からは大阪市中央区道修町のオフィスまで

片道1時間15分かけて通勤し直属部下23人を統率している。

日本板硝子の関連会社「(株)関西データベースセンター」の

営業部長も兼任

年収は1千万円あまり

 

工場システム部は本社の6工場のコンピュータ部門をコントロールする

セクションで月に数回、各工場を定期巡回し、指揮するので

出勤日数の6割とどうしても出張が多くなります。

『超オイソガ氏』が何故駒づくりなどを?

最初に熱中したのは指し将棋。

日本板硝子に入社して先輩数人と発起人となり

将棋好き13名ほど集めて職場に「将棋班」という

親睦会を作った。

会社からの補助金と会費で京都在住の南口繁一八段

( 1918年9月4日~1995年9月20日77歳)を

師範として迎え、月に2回の例会を持ち、研鑚に励んだ。

ずーっと幹事をつとめ、南口現九段には15年間

稽古をつけてもらった。

矢倉党のアマ四段。

1970(昭和45)年当時は大阪府泉南市に住んでおり、

近所の指し友達に金井静山さん作の盛り上げ錦旗を

見せてもらった。

僕は4,500円ぐらいで買った大阪彫りの駒を愛用していたが

静山さんの駒の美しさにうたれ、そんな駒が無性に欲しくなった。

宮松影水さんに注文しようと思いついた矢先に

幹太郎さんは亡くなった。

赤松駒権さんを訪ね特別注文するが半年、1年経っても

作ってくれない。

そんな時、たまたま仙台出張のついでに天童に寄る機会があった。

宿泊する旅館の土産物屋で50がらみの職人が

鉄の彫り台に駒型の白木を載せ、最も画数の多い銀将の

二文字を素彫りでさっさと彫る実演をしていた。

あまり早いので腕時計で測定すると1枚45秒だった。

近くの山寺までバスで観光する予定だったがバスに

置いてきぼりをくうほど実演に見とれた。

山形から帰って駒権さんの注文駒は出来上がらないし、

自分で作ろうと一念発起した。

僕の駒づくりは天童の店先で2時間半座り込んで得た知識だけの

自己流です。

子供達の積み木箱から2つの木片を“徴発”し彫り台を作った。

そして版木刀を購入した。

筆は試行錯誤の末、猫の背筋毛でできた根朱(ねじ)筆に

辿り着いた。

(現在は印刀は20本、根朱筆は15本ほどある)

天童問屋でシャムツゲ木地を入手し、

残業が月に60~120時間超えの多忙の中、

帰宅後や休日に2週間で自分で書いた書体で彫った。

カシュ―塗料を塗り、2日後に字母紙を

剥がすと滲みが生じており、文字が判別できない

失敗になっていた。

栄養分や水分が通る木の導管を膠やボンドで

目止めする工程が必要なことを「にわか駒師」は

知らなかったので黒く滲んでしまった。

次は本黄楊の駒木地を入手して

2カ月後の1974(昭和49)年正月に盛り上げ駒を完成させた。

駒が完成したら南口九段と初指しをする約束だったので

正月にご自宅を訪問したら、良く出来ているので

4月に京都新聞社主催の中原名人VS加藤一二三九段との記念対局で

使おうとおっっしゃって頂き、無双という駒銘まで

つけて頂き、天にも昇る思いだった。

本黄楊の原木を1回に総重量で6~700㎏、

100万円単位で購入し、ミカン箱30~40箱くらい

ストックしている。

一生かかっても使い切れない量で僕にとっては宝でも 

僕が死ねば、ただのタキギでしょうな(笑)。

1977(昭和52)年1月に「駒づくりを楽しむ会」創設。

1990(平成2)年まで年3回、50号まで発行した会報は

現在は休刊中。

残念ながら天童を始め、本職の駒師の技量は

影水、静山、龍山など一部を除くと他の漆芸、

木工芸、陶芸、人形づくりなどの分野と比較すると

小学生とオトナくらいレベルに差があった。

これを美術工芸のレベルに引き上げるには

底辺を広げるしかなかった。

そうすれば立派な駒を作る人が育ってくれるのではないかと考えた。

そこで駒づくり道具一式を頒布し、大阪、名古屋、東京などで

講習会を開いたりした。

 

「将棋駒研究会」の北田さん、NHK将棋講座に「駒暦」を

連載中の酔棋さん、電気器具販売業の北村喜代明(喜月)さんなど

OBは多い。

やや秘密主義的との批判も聞くが熊沢さんは

アマチュア駒づくり教の開祖なのだ。

 

1946(昭和21)年1月、昭和天皇の人間宣言があった直後に

名古屋市に住む雑貨商の熊沢寛道さんが「自分は南朝の正系に属する

ほんものの天皇で今の天皇はニセモノ」と主張し、米国の週刊誌や

占領軍の新聞で取り上げられ、『熊沢天皇事件』として話題となった。

皆さんが熊沢天皇と呼んだ熊沢寛道さんが私の父で僕は三男坊

この件については聞かれたら答えるが自分で吹聴することは無い。

熊沢寛道さんは正史最後の南朝天皇、後亀山天皇の正統21代目を

主張し、1951(昭和26)年には現天皇不適格確認の訴訟を

東京地裁に提訴(後に却下された)するなど、自分の主張に

仕事を忘れ全身全霊で取り込んでいた。

1976(昭和51)年6月78歳で寛道さん死去後は長兄の尊信さんが

22代目を継承して現在に至っている。

熊沢家の家紋は十六弁菊可花紋。
個人の肩で負うには精神的にも結構重たいんです。

親父は一途でちょっと変わったところがあったから

マスコミが面白可笑しく取り上げたりした。

金は入って来ないし、資産は食いつぶすし、その頃は早く言えば貧乏だった。

1972(昭和47)年10月に熊沢天皇の親類が日本鋼管(現NkK)からの収入を脱税した

とのことで逮捕の記事が新聞に掲載された。

勝手に熊沢一族を名乗り、当家とは血の繋がりの無い

同性の人間の起こした事件だが、マスコミは

調査せずにワーッと書いてしまう。

親類か兄弟の犯罪と勘違いされ、非常に迷惑した。

でも僕にとって熊沢の一員であることは誇りであり、

生きて行く上で大きなバックボーンになってることは確か。

先祖を辱めてはならないという自覚が常にあるから

1941(昭和16)年伐採の薩摩黄楊根柾を使った
11作目の盛り上げは「南帝無双」と命名し愛着深い。

 

1978(昭和53)年3月に桃山時代の古駒と「将棊図」という巻物を

写真撮影しに水無瀬神宮を訪ねた。

引き揚げようとしたところ、宮司さんに将棋関係で

調査に来たのはあなたが初めて&実はこんな書き物があると

葉書より少し大きめの和紙綴「将棋馬日記」を見せられた。

ラッキーと言うか、ぞくっとするほど興奮した。

そして1981(昭和56)年に「名駒大鑑」を自費出版した。

類書が無く、重宝がられた。

新しいデータと古今の駒を更に網羅しパート2を

作ろうと考えている。

「駒づくりを楽しむ会」の作品展は1993年7月にも

四日市市民文化会館で行われた「第12回とうかい将棋ファンの集い」

で行われ、12名の作者の42組の駒が出品された。

今回は非売品2組でしたがいつもは3、4組出品し、

三十数万円~七十万前後でだいたい買ってもらえます。

茨城県の方で僕の駒が出来るまで7年間待ってくれた人もいる。

会社が希望退職者を募った際には駒づくりを本業にしようと考えた

こともある。

でも駒づくりだけでは食っていけない。

盤屋は大名、駒屋は乞食という言葉もあり、

昔から駒職人はその日暮らしの職業。

僕が他人の10倍は手間をかけ、自分なりに納得の行く

駒を作れているのはサラリーマンという本業があるから。

これが本職なら食っていく為に粗製乱造になり、駒づくりは

楽しみでなく、苦痛になってしまう。

珍しい趣味ということで社内報で紹介してもらったり、

社外の方にもすぐに名前を憶えてもらったり、

上司に目をかけてもらったりありがたいことが結構あった。

ある年の正月、日本生命副社長さんの依頼で同グループ

150の社長、本社役員、部長らが集まる新年社長会の席で将棋の駒と

駒づくりについて1時間話をさせて頂いたこともある。

休日は10時間以上駒づくりや駒研究に励む。

僕の夢は水無瀬兼成さんみたいに達筆になって

88歳まで駒づくりを続けること。

インタビューの後、熊沢さんに車で法隆寺界隈を案内してもらった。

小学1、2年の頃に滅多に家に居たことが無いおやじに連れられ

この辺を歩いた記憶があります。

後年のインタビュー等でも語られていない話がたくさんで勉強になった。

熊沢先生の工房を訪ねる前に読んでおきたかった。

年収1千万円以上あったとは知らなかった。

それを辞してよくプロ転向宣言されたなあ。

残業が月に60~120時間超えは、業界にもよるのだろうけど

特に多くは無いなあと思ってしまった。

過労死ラインとも聞く月200時間超えとか

余裕で経験あるしなあ(笑)

始業前から内職して、

日付変わってもまだ仕事の

1日16時間労働越えとかざらでしたもん。

「NoNo残業DAY」(“ノー・残業デイ”が年数回しか無いwww)

だったから。

どうして熊澤さんがパソコンがあまり得意で無いのかは

いまいち分からないけど。。。

 

※1946(昭和21)年1月1日

年頭詔書で天皇が人間宣言を行った。

「ここに新年を迎う。

国運を開かん。

朕と国民の間の紐帯(ちゅうたい)は

終始相互の信頼と敬愛で結ばれ、単なる神話と伝説とに

よりて生ぜるものにあらず。

天皇をもって現御神(あきつみかみ)とし、かつ日本国民を

もって他の民族に優越せる民族にして、世界を支配すべき

運命を有すとの架空なる観念にもとづくものにあらず」と

天皇の神格を否定した。

天皇を戦争犯罪人として裁くべし&天皇退位論も強く、

こうした厳しい情勢の中、幣原首相が英文で起草し、

日本語訳して天皇が目を通して五か条の御誓文部分を加えた。

 

 

 

名古屋市千種区内の洋品雑貨屋「日の出や」店主熊沢寛道(ひろみち)さん56歳。

 

 

 

確かに良尊さんはお父様に似てるわ。

 

 

【パリでの縁台将棋】

by藤田宜永(よしなが)さん (1950~2020年69歳)

犯罪小説、冒険小説、推理小説など。

 

将棋を覚えたのは大学に入ってから。

同級生に教えてもらった。

不思議なことに最も将棋をやったのはパリ時代。

夏の暑い日、パリのカフェテラスで縁台将棋を指していると

ボーイが慌てて飛んで来て「ゲームをやるなら

中に入ってくれ」と言われた。

ゲームや勝負事はテラスで行ってはいけないと

いう法律があるのだそう。

仕方なく奥のボックスに移るとビール腹の

気の良さそうな爺さんが話し掛けてきた。

何というゲームかね?と。

日本式チェスト答えると邪魔しないから見ていて

良いかねと言って私の横に腰をおろした。

しかし邪魔しないと言ったのは真っ赤な嘘で一手一手

説明を求めてきて爺さんがうるさく、

勝負に全く身が入らなくなった。

何故裏返しにするのかね?と聞くのでチェストの大きな

違いを教えた。

女王はいないと答えると

サムライは独身で女嫌いか?と爺さんは笑い出した。

なので、戦場にカミさんを連れて行く奴は

潜在的にカミさんを殺したいと思ってる奴だけですよ、

と答えると、尤もだなと爺さんは笑った。

 

【くつろぎの時間第9回豊川孝弘四段】

写真が若々しくハンサムで、郷田さんどころじゃ無く、めっちゃ格好良い。

ウェートレーニング姿はこの暑い時期に汗臭い男の肉体美は

どうもというのは冗談だが、本人が最近はウェートで

有名になり止めるわけにもいかなくて、とのことで

肋(あばら)間神経痛克服の為に始めた自転車で登場になった。

奨励会22歳頃は何だか分からないが金も無いし走るぐらいしか無く

毎日多摩川べりを70㎞ほど走っていた。

自転車初の遠乗りは夜22時東京高円寺出発で

平均時速28㎞で9時間かけて長野県松本まで。

石川県能登まで行った際は1日で160㎞、3日間で340㎞走った体力派。

平地と下りの最高速度は75㎞。

将棋の調子が悪い時に考え事をしていて

転倒し、革ジャンはボロボロで自転車も廃車になる事故歴もある。

 

【風景’21異人館と駒】

写真&文:森信雄さん。

神戸の異人館。

 

 

 

ここら辺かなあ??

 

ハリウッドスターウェイ、英国館、プラトン装飾美術館(イタリア館)、

などの館内撮影。

そして日本一の将棋駒コレクター豊田守人さんのご自宅を訪問。

近代将棋の表紙に10数年に渡り異なる書体&駒師で提供されたらしい。

テーブルの上には桐角箱に駒袋無しで入ってる駒が2組と

桐平箱に入った駒が3組置かれている。

数百組の盛り上げ駒を所蔵されてるとのことで

単品写真カットは竹風さん作の顔真卿盛り上げ(杢目か?)と

詳細説明なしの松雪書の駒(柾目??)。

1)駒を好きな人なら将棋への愛着も深くなり

離れることは無いでしょう。

美術品、芸術品としての駒の良さを判って欲しいと思います。

2)テレビの棋戦は一字彫りの駒でなく芸術性のある

本来の駒を使って頂きたい。

各棋士愛用駒で出るのも良いのでは?

その為の協力は惜しみません。

とのこと。