願い(3・11の記憶) | ドラゴンボールをかき集める

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役者・MC・レポーターの、あっきぃです。



日々、目標を達成していく様子って、ドラゴンボール集めに似てないすか?



そんな30男の、必死な日常。



でもマイペース。

福井に引っ越して2ヶ月。


だいたい馴染んできた気がする。


まぁ週末は東京にいるから、まだ完全に移行してる感じではないけど。



そんな半々の立場だから、見えてくるものもある。


それは、震災に対する認識の違い。



東京だと、震災と言えばちょうど2年前の3・11の話になる。


だけど、福井などの関西近辺の人たちは、震災と言えば阪神淡路大震災の話になる。



やはり実際に体験してるかしてないかでは、「共通認識」としての話は難しい。


もちろんどちらも甚大な被害を被ったし、ショックもケタ違いに大きい。


だけど、この2つの震災はあまりにも性格が違いすぎる。




ここでは、自分が体験した3・11についての記憶を残したい。




2011年3月11日


震度5強の2回連続の長い揺れ。体感したことのない恐怖。


だけど、真の恐怖はその後だった。津波、原発事故。


今まで考えもしなかった、首都圏に迫る放射能の危機。



産まれて間もない娘と、その娘を完全母乳で育てる妻を守るため、

ありとあらゆる可能性を考えた。



口に含む水、肌に触れる空気、彼女たちがどこから放射能に蝕まれていくか分からない。



原発の状況は悪くなる一方。



震災から数日後、妻と娘を実家の福井へ疎開させた。

疎開という表現は大げさに聞こえるかもしれないが、当時の新幹線の駅の待合所の雰囲気は、

正にそんな感じだった。



しばらくして彼女たちが東京に戻ってきてからは、幸い近所の方たちの救いの手が多く、

当時貴重だったミネラルウォーターを妻と娘の生活水に充てることができた。



他にも東京で手に入れられる物は少なかったけど、福井からの救援物資に本当に助けられた。




話は飛ぶが、阪神大震災の後、ボランティアとして神戸に行った際、現地の人に

「東京の人間から見たらこの地震なんて対岸の火事やろ」

と言われた。


そんなことないとその時は思ったけど、今は言った人の気持ちが少し分かる。




体験しないと分からない。




確かに分からない・・・けど、認識を近づくことはできる。


お互いをどう理解していくかだ。




もちろん、3・11で自分なんか比べ物にならないほど大きい苦しみを抱えている人は遥かに多い。


そして、それ以上に、阪神大震災を経験した人の気持ちに近づくことは難しいと思う。



そこを、どう認識を近づけていくか。



今、自分たちが住んでいる福井県は、日本で一番原発が多い県。


原発賛成派と反対派が混在している。



双方の意見を聞くと、歩み寄る姿勢はまだ見られない。



歩み寄ること自体が難しいであることは百も承知。


だけど、どっちつかずになっているこの現状が一番良くない。




震災当時に産まれたばかりの娘は2歳になった。


先月にお姉さんになった。



子供たち、孫たちが安心できる未来を作りたい。



とにかく、願いはそれだけ。