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Tarih-i Bosna

ボスニア近代史を中心に: 備忘録

今年2016年は、日本とボスニアの国交樹立20周年なのだそうだ。

 

http://www.klix.ba/vijesti/bih/ogawa-velika-je-steta-da-bih-zemlja-koja-ima-veliki-potencijal-bude-nerazvijena/160206015

昨年任命された、第三代駐ボスニア日本大使の小川和也がKlix.baのインタヴューで20周年に触れつつ、日本からの投資拡大が自身の最重要任務であると答えている。

 

日本大使館により、今年は日本関連のイヴェントが多数行われている。

その内のひとつとして、ボスニア国立美術館で昨日531日まで開催されていたのが、「現代日本建築」。

 

展覧会が始まって大分過ぎた平日の昼間に出かけたので、誰も見学者がいなかった。

東京で生活していた時には、雑司ヶ谷に住んでいたのだが、全く用事がなかったので飯田橋の駅で降りることがなかった。その為、飯田橋の駅外観がこんな奇抜なものと、サライェヴォで初めて知ることになった。

 

 

 

ボスニアが国家として存在したのは、中世ボスニア王国を除けば1992年の独立宣言以降だけである。その為「外交関係」として見れば日本との関係は20年なのであろうが、20世紀初頭にはボスニアに日本人が姿を現している。

他方でボスニアから日本への関心も存在した。1912120日にサライェヴォで商人組合主催により「長崎の夜 eine Nacht in Nagasaki」と題された仮装舞踏会が開催された。『ボスニア・ポスト』によれば、会場ホールは日本の旗、ランタン、傘や扇子が飾り付けられ、四隅には日本風藁小屋が設けられ、茶、コーヒー、お菓子やシャンパンが売られていた。これら以外にも吹き向けホールやアーケードに日本製品を売る市場や喫茶テントが設置され、「日本の服装をした女の子たちが売り子を務めていた。Fräuleins in japanischer Tracht fungierten als Verkäuferinen.

[Eine Nacht in Nagasaki, Bosnische Post Jahrgang XXIX Nr. 17 (22. I. 1912), S. 3.]

 

この「日本の服装をした女の子」とは具体的にどのような服装なのだろうか? 残念ながら具体的な描写も絵もない為分からない。しかし『サライェヴォ日報』では、この二週間前「最新モード」という記事の中で「日本人女性コスチューム」を紹介している。これは上述した仮装舞踏会とは全く関係のない記事であるが、当時のボスニアにおける「日本人女性」の表象を知る手掛かりであろう。

[Die neuesten Moden, Sarajevoer Tagblatt Jahrgang V Nr. 4 (6. I. 1912), S. 10.]

 

 

 

以前ブログで紹介したが、当時ボスニアを訪れた日本人女性はただ一人、「マダム・ハナコ」である。彼女は前年1911222日・23日にサライェヴォで「おたけ」と「茶屋」を公演している。両演目を全く知らないので、その内容を詳しく調べた上で判断すべきであるが、この公演が上記の日本人女性コスチューム観に影響したのかもしれない。

O. Reiser, Die Falkenbeize in Bosnien, Bosnische Post Jahrgang XII Nr. 73 (11. IX. 1895), S. 1-2.

サライェヴォで発行されていたドイツ語紙『ボスニア・ポスト』文芸欄に掲載された「ボスニアの鷹狩」。筆者のオトマル・ライゼルは州立博物館学芸員であり、鳥類学を専門としていた。

 

「狩猟用猛禽類に関して、昔から隼がここでは大体愛用されていた。ムスリムは「ソコル」と呼んだ。以前には若い隼を捉える事は難しくはなかった。なぜならば現在ボスニア鉄道が通る、トルブクの岩山で多くのカップルが毎年営巣していたからであるが、人の語るところによれば、白頭の禿鷹によって追い払われ、現在隼をマグライ近郊で確保するのは非常に困難である。シロエリハゲワシは実際上記岩山に営巣しているが、彼らが隼の居住地を奪ったかどうかは、私見によれば非常に疑わしい。寧ろ営巣地の足下を通る道路及び鉄道建設が彼等を追放したのだ。」

Was nun die Art der zur Jagd verwendeten Raubvögel anbelangt, so war von jeher der Wanderfalke am mesiten hiezu beliebt. Die Muhamedaner nennen ihn schlechtweg “sokol”. Früher waren junge Wanderfalken nicht schwer zu bekommen, denn in den Felsen bei Trbuk, zwischen denen jetzt die Bosnabahn hindurchfährt, sollen mehrere Paare alljährlich gehorstet haben, allein – so behauptet man – dort seien sie von den weissköpfigen Geiern verdrängt worden, und jetzt sind Wanderfalke nur sehr schwer aus der Umgebung von Maglaj zu erhalten. Gyps fulvus horstet nun wirklich in den genannten Felsen, ob er aber hiedurch dem Falken den Aufenthalt verleidete, bleibt nach meiner Ansicht sehr fraglich. Vielleicht haben ihn eher die Strassen- und Bahnbauten am Fusse seiner Horststätte vertrieben.

 

トルブクはドボイ駅とマグライ駅の中間辺りに該当するが、今日車窓から見ると、ほとんど眼前といえる距離に山が迫っているような場所であり、「足下」という表現がよく分る。鉄道と鷹の消滅はコスタ・ヘルマンも前年に主張していた。

 

「長きに渡ってマグライの鷹匠たちは隼を手に入れることが出来ず、その代りを考えざるを得ず、それを馴染みのハイタカの内に見出した。しかしこれにより当然鷹による大物猟から鷹による小物猟へグレードダウンすることとなった。」

Als nun vor mehreren Jahren die Falkner von Maglaj keinen Wanderfalken mehr bekommen konnten, mussten sie an einen Ersatz denken und fanden diesen in unserem gewöhnlichen Sperber, Accipiter nisus, stiegen aber dabei freilich von der hohen zur niederen Falkenbeize herab.

 

以前の記事「鷹狩 5」で中世鷹狩の対象が鹿であったと同時に、前近代に鹿が姿を消したことを述べた。他方で、鷹自体に関しても、ハイタカの活用が、大型の狩りを不可能にさせる要因となった訳である。

 

「ハイタカは特に若鳥に於いて調教に適している。鷹匠が注意せねばならないのは、毎年春に調達するという点である。なぜならば鶉がいなくなった後、晩夏の狩猟シーズンが近づくまで冬の間中、既に調教済みの鳥を養うのはコストが掛かりすぎるからである。」

Der Sperber ist vor allem als junger Vogel zum Abrichten geeignet und der Falkner muss darauf bedacht sein, sich eines solchen alljährlich im Frühjahre zu beschaffen, da es ihm meistens viel zu kostspielig erscheint, den beretis abgetragenen Vogel nach dem Abzug der Wachteln, den ganzen Winter hindurch zu ernähren, bis wieder im Spätsommer die Zeit der Jagd herannaht.

 

日本の鷹狩事例であるが、大塚紀子によれば、隼の場合も、「長期間飼育すると人間と駆け引きをしたり、餌を期待したりして猟欲が下がりやすいという理由で、[…] 年が明けたら放鳥していた。」

[Cf. 大塚紀子 『鷹匠の技とこころ 鷹狩文化と諏訪流放鷹術』 白水社 2011, 169]

 

[ハイタカを捕獲後] 慎重に持ち帰り、この暴れん坊にまずは枷をはめる。それは軽いが、しっかりとした革から作られており、両脚に固定され、互いに一定距離を離して結ばれる。各脚には更に鈴が固定され、それにより鳥の動静を常に知ることが出来ると共に、万が一脱走しても容易に見つけ出すことができる。[…] 飢えさせて眠らせない。これらが鳥から当初の粗暴さを奪う。鷹帽子とその使用はトルコ放鷹術が知らないものである。」

Sorgfältig nach Hause gebracht, werden dem ungeberdigen Wildling zunächst die Fesseln angelegt. Dieselben bestehen aus leichtem aber festem Leder, sind an beiden Ständern befestigt und mit einander in einiger Entfernung verknüpft. An jedem Ständer ist ferner noch eine Schelle befestigt, damit man von der Anwesenheit und den Bewegungen des Vogels stets in Kenntniss gesetzt wird und den etwaigen Ausreisser leicht wieder finden kann. […] Hunger leiden lassen und schaflos erhalten, benimmt dem Vogel seine anfängliche Wildheit. Die Falkenkappe und ihre Anwendung kennen die türkischen Falkoniere nicht.

 

 

 

[ザグレブ自然誌博物館に展示されている隼の剥製]

今日は昼辺りからようやくお日様が顔を出して暖かくなったが、日が落ちると依然寒い。

久しぶりに「巡礼者のケバブ Hadžijski ćevap」を食べる。仔牛肉が一般的なようだが、個人的には鶏肉の方が好き。今回も鶏肉。焦げたように見えるのは小生が振掛けた胡椒です。

 

 

 

セニヤ・ミリシチ『ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおける学問の制度化 (1945-1958)』。

彼女の博士論文を書籍化したもので期待して読んだのだが、かなり出来が悪いと言わざるを得ない。学問が大学・研究所という組織へと如何に制度化されていったのかに関する研究を期待したのだが、各組織の目的・設立日時・設立メンバーに関する事実が羅列されているだけで、制度化過程自体が全く分析されていない。

唯一面白かったのは、サライェヴォ大学哲学部が創設時(19501111)、国文学科・外国語学科・歴史学科・地理学科・数学物理学科と化学学科の六学科で出発し、哲学科が開設されたのは6年後の1956年という情報だけだった。

[Senija Milišić, Institucionalizacija nauke u Bosni i Hercegovini (1945.-1958.), Sarajevo: Institut za istraživanje zločina protiv čovječnosti i međunarodnog prava, 2007, str. 300-301.]

 

以前触れた『学問と世界観 民族誌と1939-1941年クロアチア・バノヴィナの教育政策』。

教育思想における「労働学校」と教員の民主的・主体的教育の推進が1939年から1941年のクロアチアにおける主要な潮流となっていたことが指摘されていた。

この後のファシスト国家であるクロアチア独立国(1941-1945)における教育思想はどんなものなのだろうか?

 

フセイン・ムラトベゴヴィチ: 1943: 教師が指導者、権威、裁判官、オーガナイザーにして全ての活動の推進者であるような学校に於いて自立及び自活の発達が考えられるであろうか!? […] 確かなことは、模倣に適し、押し付けられた考えを唯信じるだけの若者を育てるつもりはないという事である。

A može li se zamisliti razvoj samostalnosti i samoradnje u školi na kojoj je učitelj vođa, autoritet, sudac, organizator, i inicijator (pokretač) čitavog rada!? […] A sigurno je da ne želimo odgajati podmladak sposoban za oponašanje, sposoban samo da sluša i vjeruje u nametnuta mišljenja.

[Husein Muradbegović, Metode rada u pučkim školama, Osvit br. 58 (16. IV. 1943), str. 12.]

 

クロアチア独立国においても「労働学校」の思想は依然として維持されていた訳である。しかし権威への盲目的服従を拒否して、自分で思考し活動する人間はファシスト国家であるクロアチア独立国にとって邪魔でしかないだろう。

実際かかる「理想」は実現せず、旧態依然の暗記主体の詰め込み教育が「実態」であったことをサーニャ・グラダナツが修士論文『第二次世界大戦時ヴルフボスナ大管区における国家教育制度 イデオロギー内容に重点を置いて』で指摘している。

[Sanja Gladanac, Državno školstvo u Velikoj župi Vrhbosni u Drugom svjetskom ratu sa akcentom na njegov ideološki sadržaj, Magistarski rad: Filozofski fakultet u Sarajevu, 2012, str. 46.]

 

ただ教育思想の伝統はクロアチア独立国によって完全に断たれた訳ではないことが分かる。グラダナツの修士論文によれば、「理想」である、教育からのセルビア人の完全排除は、教員不足から一程度のセルビア人教員を雇用せざるをえない「実態」によって挫折していた。教育思想の書き手たる教員自体に(セルビア人・ユダヤ教徒の追放・虐殺という断絶はあるとしても)連続性が存在した以上、そのアウトプットたる教育思想自体に大規模な転換が生じることはなかったという訳である。例えばハプスブルク支配期(1878-1918)から教育思想に関して発表しているムスリムのハムディヤ・ムリチは1942年に、生徒が「受け身」な旧来の教育を批判し、生徒の活動に重点を置くように主張している。

[Hamdija Mulić, Pučka škola kao osnov narodne prosvjećenosti, Osvit br. 7 (10. IV. 1942), str. 6.]

 

クロアチア独立国が統治した4年は平和な時代ではなく、チトー率いるパルチザンとの戦争という第二次大戦の真っただ中であった。特にボスニアの村部にクロアチア独立国の統治力は殆ど及ばず、教員も次々と逃亡しパルチザンに身を投じていた。都市部でも進駐した軍や村部から避難してきた難民の宿舎として学校が活用され、そもそも「実態」としての教育が機能していなかった。