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Tarih-i Bosna

ボスニア近代史を中心に: 備忘録

冬将軍再びのサライェヴォ。

 

 

 

Nikola Visković, Kulturna zoologija. Što je životinja čovjeku i što je čovjek životinji, Zagreb: Naklada Jesenski i Turk, 2009, 432 str.

Ana Batinić, U carstvu životinja. Animalističko čitanje hrvatskih dječjih časopisa, Zagreb: Hrvatska sveučilišna naklada, 2013, 343 str.

 

ニコラ・ヴィスコヴィチはクロアチアにおける「エコ倫理学」に関する大御所。『文化動物学。人にとっての動物と動物にとっての人』は、人と動物との関係を様々なテーマ別に、クロアチアに限定せず歴史的・社会学的・倫理学的に分析している。ちょっとした事典みたい。

後者のアナ・バティニチ『動物たちの帝国にて。クロアチア児童雑誌の動物学的読解』は、19世紀から20世紀に至る主要な児童雑誌であった、Bosiljka, SmiljaSmiba三誌の中で「動物」が如何に扱われているのかを分析した、彼女の博士論文である。ジャンル別に分析した前半では、「人間中心主義」から「生物中心主義」へと論調が緩やかに変化していく様子が描かれる。ただ後半のテーマ別による分析部分は、個々のテーマに該当する作品の量に偏りがあり過ぎる為、当該テーマに関する他国文献に大きく依拠する点で、主張したい論点が分析に先行する部分が多々見られるなど欠陥も存在する。

しかし、ヴィスコヴィチに欠けて、バティニチに存在したテーマが、「戦争と動物」であった。ヴィスコヴィチも戦争に道具として動物が使役された歴史は言及しているが、バティニチは直近の「ユーゴ内戦」において動物が蒙った苦難に言及している点が異なる。今後の内戦研究で見落とされてはならないテーマであろう。

 

 

 

 

 

ザグレブ自然誌博物館: 1939215日ネレトヴァ水路で捕獲された大西洋チョウザメ。

「湿地生息域の干拓とネレトヴァ流域の水路建設が、他の魚類種たちと共に大西洋チョウザメの移動を不可能にした。ネレトヴァ下流域の生態学的機能は、南方果実、特に蜜柑のプランテーション仕様にされた。」

 

ネレトヴァ川は世界遺産で有名なヘルツェゴヴィナのモスタルを通ってアドリア海に注ぐ川である。下流域でのウナギ漁は知っていたが、チョウザメなんか捕れたんですね。

1902年にサライェヴォで出版された啓蒙書『緑の小枝』には、「パン」がどのように作られるのか等に関する説明と並んで「チョウザメ」の項目が存在して、読んだ時に困惑したが、案外身近な魚だったのかも。

 

ニコラ・マラコヴィチ: 1902:「自然的観点からキャビア生産は許容できない。それは、数百万の魚を一度に殺害するヴァンダリズムそのものである。」

S prirodnoga gledišta ne može se pravljenje hajvara odobriti, to je pravi vandalizam, koji ubija tolike milijune riba i to na jednom.

[Nikola Maraković, Zelena grančica. Niz pouka roditeljima i odraslijoj mladeži, Sarajevo, 1902, str. 72.]

 

実際、大西洋チョウザメはキャビア用の乱獲で近絶滅種(critically endangered species)である。

Suzana Leček i Tihana Petrović Leš, Znanost i Svjetonazor. Etnologija i prosvjetna politika Banovine Hrvatske 1939.-1941., Zagreb: Srednja Europa, 2010. 152 str.

学問と世界観 民族誌と1939-1941年クロアチア・バノヴィナの教育政策

 

 

 

1939826日のツヴェトコヴィチ=マチェク協定により、大幅な自治権を持った「クロアチア・バノヴィナ」が成立し、クロアチア農民党を主軸とした「自治政府」がユーゴ王国内で機能することとなる。

クロアチア「国家」が成立した中で、「社会」をクロアチア化する鍵が、「民族誌」教育を学校内外に於いて強化することのうちに求められた。これは文明に汚された「都市」ではなく、「農村」にこそ純粋なクロアチア精神が息づいているという、ロマン主義的・ナロードニスト的イデオロギーに基づいていた。

かかる潮流が、ヘルバルト主義教育に対する対抗軸であった「労働学校 radna škola」の思想系譜に位置していたことは知らなかった。他方で「民族誌」を通じて「国家」と「社会」をクロアチアの下に統一・糾合しようとした、この「運動」にうさんくささを感じるが、排外的民族主義と異なる点を筆者たちが指摘しており興味深い。この運動の担い手たち、或いはイデオローグは「社会」が多層的・多重的であることを認め、「民族誌」の実地調査などの「現場」での他者理解を通じて社会的団結を構築しようとしていた。故に、セルビア人が多数を占める地域では「セルビア」民族性が存在することを許容していた。かかる社会認識に基づいて、新たな統一的クロアチア社会=国家の構築を志向していた訳である。同時にかかる態度には個別の民族性を否定して、集権的政治体制を支えた、従来の「ユーゴスラヴ主義」への警戒と嫌悪が背景に存在していたことも意識せねばならない。更に教科書の不足という背景があるにしても、「民族誌」教育を如何に行うかは教員たちが会議を通じて「民主的・主体的」に決める様に促していた点を筆者たちは評価している。

「教育政策」に焦点を絞っている為、上述した社会・民族観、或いは教育学的系譜などの思想的方面の分析が殆どない。其の上、学年度でみれば一年とちょっとという「短期間」の政策であるため、この「運動」の成果は殆ど表面に現れなかった。結果、事例研究としては面白いが、より広いコンテクストへの位置づけに欠け、不完全燃焼のような読後感。この政策が進められたとしても、期待された統一的社会に貢献できたとも思えない。上述した協定成立以降、セルビア人も同様の処置を求めるようになり、民族毎にブロック化の傾向を示していたからである。

 

いずれにせよ、クロアチアはこの直後「国家=社会」の統一に関して全く別な方策に道を譲ることになる。194146日ドイツ軍がユーゴに侵攻し、同月10日ドイツ軍はザグレブに到達し、スラヴコ・クヴァテルニクがクロアチア独立国の建国を宣言する。クロアチア農民党は下野し、ファシスト団体であるウスタシャの指導者アンテ・パヴェリチを首班とした新政権が同月16日に成立する。

 

サライェヴォ出身のモリッツ・レヴィMoritz Levyは、ウィーン在学中にラヴィの資格を取得し、1917年からボスニアの首席ラヴィを務め、ギムナジウムなどで教鞭を執る知識人であった。ウィーン大学哲学部に提出された博士論文『ボスニアのスファラディー Die Sephardim in Bosnien』は1911年に出版され、現在でもこの分野の古典である。しかし1941年ボスニアがナチスドイツの傀儡国家であるクロアチア独立国の領土となると、ユダヤ教徒は迫害に曝されることとなる。同年彼はグラーツに連行された後、ボスニア北部に設置されたヤセノヴァツ強制収容所に収容され、翌年虐殺される。第二次大戦以前に活動していた、多くのユダヤ知識人・芸術家が、現ヴラツァ記念公園で処刑されるか、ヤセノヴァツ強制収容所で虐殺されている。更に194146日ドイツ軍は、サライェヴォのシナゴーグを襲撃し略奪・放火を行い、結果シナゴーグに併設されていた図書館・公文書館が焼失したため、多くのユダヤ教徒内部文書が灰燼に帰すこととなった。

 

 

[1912年建設、サライェヴォ・ユダヤ銀行家イェシュア・サロムの旧私邸・現国立美術館]

 

ムラデン・ロルコヴィチ: 1941: クロアチア民族は不幸を齎す要素全て、異質である要素全てから浄化されなければならない。[…] 即ち我が国に住むセルビア人とユダヤ人である。

Hrvatski narod mora očistiti sebe od svih elemenata koji su za njega nesreća, od elemenata koji su strani […] ti su naši Srbi i naši Židovi.

 

: ムラデン・ロルコヴィチ Mladen Lorković (1909-1945): アンテ・パヴェリチ政権の外務大臣。

 

[Usp. Ivo Goldstein, Hrvatska 1918-2008., Zagreb: EPH Liber, 2008.

Avram Pinto, Jevreji Sarajeva i Bosna i Hercegovina, Sarajevo: Veselin Masleša, 1987.]

本日38日は「国際女性デー」。

サライェヴォでも各街角や橋の袂に薔薇を売るスタンドを見ることが出来る。お世話になっている女性と会う予定があったので、小生も購入。

薔薇一輪で4マルク。1.5リットルのペットボトルの水が1マルクなので高い気がするのだが。[1マルクは二分の一ユーロの固定制。現在のレートだと62円前後]

 

近代に女性が公共の空間に大きな役割を担うようになり始めた点は、ハブスブルク帝国下南スラヴ言語地域も同じである。

 

ザグレブを事例として取り上げる。

19世紀半ば以降、主として寡婦が店主として商業を主導する商会や店舗が増加。女性労働者の数も増大し、事務職など、従来男性が独占してきた職業領域にも女性が登場してくる。同時期商業から財を構築し、銀行業・工業などに投資することで資本家として上昇してきた人々が、二世や三世に跡を継がせる中で、所謂ブルジョアの貴族化傾向が生じてくる。その中で文化・芸術活動の中心としてのサロンを、彼らの妻たちが主導していくこととなる。

女性の社会進出には、1874年義務教育制度の導入が大きく貢献していた。1914年にはザグレブ大学哲学部で158人の女生徒が在籍していた。ファッションも自由度が高くなり、ズボンを履き煙草を吸う女性がカフェに現れるようになる。自由主義的なイヴァン・マジュラニチ総督期(1873-1880)には地方選挙で女性にも平等な選挙権が与えられる。但しこれはドラグーティン・クーエン=ヘーデルヴァーリ総督期(1883-1903)に廃止され、実際に適用されたことは一度もない。

 

一面的にバラ色であった訳ではない。ユダヤ系資本家サラモン・ベルゲルの娘マチルダは、1897年ザグレブ女性リセに入学する才媛であり、「陽気で衝動的な(po naravi vedra, impulzivna)」女性であった。しかし、妹ウィルマの言によれば、彼女には「5歳の時からあらゆる自然なもの(prirodnost)は馬鹿げたもので醜いものであり、真なる率直さとは純粋な無分別に過ぎないのであり、他人との交際に於いては常に距離を保たねばならないという考えが詰め込まれてきた。」

[Usp. Iskra Iveljić, Očevi i sinovi. Privredna elita Zagreba u drugoj polovici 19. stoljeća, Zagreb: Leykam international, 2007, str. 296.]

 

他方でハーバート・スペンサーの教育における「自然罰」の称揚や未就学や不定期就学が齎す害を「発達な自然の経路の阻害」に見ていた言説のように、「自然」に合わせた教育が支持されていた。この背景にはルソーがクロアチア教育界に有した大きな影響力も存在していた。

 

「自然」は抑圧されるべきであると同時に尊重されるべきというダブルバインドとして機能していた。

 

児童文学作家であると同時に、19世紀末20世紀初頭を代表する女性教育家であったヤゴダ・トゥルヘルカは、「新しい女性」に関して以下のように述べている。

「完璧な教育を受けた女性は、学問を通じて男性と知的に平等となるが、男性より引き立たせる女性的徳目を純粋に保つ術を知るだろう。更により明白な知を通じてそれらを完成させるであろう。[…] 反対に彼女は気取りや情動、女々しさ、中身のないこと及びコケットリーの小技を振り落す。知的調和、自己の完成と自己の種の進歩への願いに於いて、少年は少女に対して兄弟が姉妹に対する様に存在するだろう。[…] 故に今日の女子に求めるのは、全般的教養、純粋な気質と優しい心であり、それらの徳なくしては調和のとれた人間は存在しない。Savršeno prosvijetljena žena, koja će se putem nauke umno izjednačiti s mužem, znat će sebi da sačuva netaknute i one vrline, što je odlikovahu i dosele ispred muža. Dapače ona će ih još više usavršiti s pomoću veće jasnoće svoje umne spoznaje. […] Ona naprotiv otrest će se prenemaganja i afektacije, ženske plačljivosti, i ispraznoga hitotanja i svih sitničkih vještina koketerije. Naći će se mlad čovjek k mladoj čovječici kao brat sestri u umnom skladu, u zajedničkim težnjama oko svoga usavršavanja i napretka svoga roda i plemena. […] Od današnje djevojke tražimo dakle uz općenitu obrazovanost naročitu čistoću ćudi i milostivo srce, jer bez tih vrlina nema harmonična čovjeka.

[Jagoda Truhelka, U carstvu duše, Osijek, 1910, str. 326-330.]

 

「女性的徳目」の完成を求められながら、一貫して完成させる様に要請されているのは、「女性」でも「男性」でもない或いは「女性」且つ「男性」である「人間」という「無性」なる存在。知情意の調和が取れた「人間」は、当時の教育学及び心理学におけて男女関係なく求められた。「女性」と同じように「情動afektacija」は捨てるべき「情」の一面として「男性」教育においても非難された。

 

「自然性」は「醜い」ものとして、「陽気」という「自然」な気質を抑圧せねばならなかったマチルダ・ベルゲル。彼女は190821歳で命を散らすことになる。