Tarih-i Bosna

Tarih-i Bosna

ボスニア近代史を中心に: 備忘録

Amebaでブログを始めよう!

いろいろバタバタしており、ブログ更新もままならない日々。

 

 

Aida Ramić (ured.), Rijeka Krivaja kroz prošlost, Sarajevo: Institut za istoriju u Sarajevu i Udruženje za modernu historiju, 2016, 232 str.

歴史を通したクリヴァヤ川』は論文集である。2014年9月19日に表題にあるクリヴァヤ河畔の町オロヴォで開催された、同名のシンポジウムの成果論文集。ただ発表された論文全てが所収されている訳ではなく、査読を通過した論文のみである。

このシンポジウムに参加したかったのだが、当時小生は博士論文史料収集のためザグレブに滞在していたので参加できなかった。そのため、この論文集は待望の書籍である。所属研究員ではないが、出版が同級生だらけのサライェヴォ歴史研究所であり編集者も同級生なので、献本という形で手に入れられた。

 

クリヴァヤ川はサライェヴォから北東に進んだ山間部に水源をもつ。最終的にサライェヴォ近郊に水源を持ち北へ流れる大河ボスナ川に流れ込む支流である。上述したオロヴォまではサライェヴォからバスで40分ほど。

 

大半の人にとってクリヴァヤ川は聞いたこともない川であろう。小生もまったく知らなかった。ではなぜこんなマイナーなテーマでシンポジウムが開催されたのか? それは二つの目的からであり、一つはマイナーな地域に焦点を当て、新たな歴史的側面を切り開くミクロヒストリーを推進する目的である。もう一つは、川という自然が人と歴史的に如何に関係してきたのかを検証しようとするエコヒストリーの開拓を目的としていた。

 

アイダ・ラミチの「ローカル史研究の史料としてのオロヴォ新聞 Olovske novine kao izvor za istraživane lokalne historije」(201-207)やアゼム・コジャルの「文字史料に基づくクリヴァヤ川流域史研究問題の諸相 Neki aspekti problematike istraživanja prošlosti sliva rijeke Krivaje na osnovu pisanih historijskih izvora」(219-230)はミクロヒストリーの方法論そのものである。依然として歴史研究は「アーカイヴ史料」にのみ基づいて行われるべきという「神話」を信奉しているアナクロ人間が多いので、アイダ・ラミチの研究は地味であるが重要。

 

小生がこのシンポジウムに期待したのは、エコヒストリーに基づく研究であった。しかし残念ながら、この論文集にはエコヒストリーの観点から検討された論文は皆無と言わざるを得ない。

セカ・ブルクリャチャが「森林経済の発達がザヴィドヴィチの都市化に与えた影響 Uticaj razvoja šumske privrede na urbanizaciju Zavidovića」(171-184)は冒頭で経済活動と自然生態への損害との関係を指摘している(171-172)が、論文自体はオスマン期から現代までの「都市」の定義に関する歴史をザヴィドヴィチ(クリヴァヤ川とボスナ川の合流点にある町)を事例に論じているだけである。

セダード・ベシュリヤは「17世紀オロヴォ・ナーヒエ史への一論考 Prilog za historiju nahije Olovo u 17. stoljeću」(81-90)で数少ないオスマン語史料に基づいて、オロヴォ・ナーヒエでの経済・宗教活動を再現している。エネス・オメロヴィチは「20世紀前半のクリヴァヤに於ける外国人 Stranci na Krivaji u prvoj polovini XX stoljeća」(127-169)で彼の専門であるボスニアの民族的マイノリティ研究の視点から、クリヴァヤ川流域の人口動態をアーカイヴ史料に基づいて描いている。またザヴィドヴィチ史研究者として有名な在野のユースフ・ムイキチは「クリヴァヤ流域に於ける森林開発とクリヴァヤ渓谷の鉄道建設 (1878-1990年) Eksploatacija šuma u krivajskom bazenu i izgradnja željezničke pruge u dolini rijeke Krivaje (1878-1990)」(91-125)で専門知識をいかんなく発揮している。しかし彼の主著『歴史を通じたザヴィドヴィチ Zavidovići kroz prošlost』やボスニア林業史の基本書ブラニスラヴ・ベゴヴィチの『森林開発と材木の産業加工に重点を置いた、オーストリア=ハンガリー支配期ボスニア・ヘルツェゴヴィナ森林経済の発展コース Razvojni put šumske privrede u Bosni i Hercegovini u periodu austrougarske uprave (1878-1918) sa posebnim osvrtom na eksploataciju šuma i industrijsku preradu drveta』の要約の様な感が否めない。それぞれの論考は小生にとっても参考になる情報などを含んでいるが、結局こう言いたくなる。

クリヴァヤ「川」はどこ?

 

注: ナーヒエはオスマン帝国の行政単位。

 

川との係わりが充分に乃至ほとんど描かれていない。未だボスニアではエコヒストリーの研究基盤が整っていないのかもしれない。

 

それでは皆様良いお年を。

ボスニアを統治していたハプスブルク帝国当局は、放埓な青年層を近代的規律への不適応と解していた。荒れた青年層として注目を集めていたのは、主としてギムナジウムの学生など、中等学校の学生たちであった。サライェヴォ事件の主人公となった「青年ボスニア」として纏められた人々も、中等学校の学生たちであった。プレドラグ・パラヴェストラは、「政治的・革命的行動を体現したのは、その最も過激な連中であった」と評している。他方で彼は、政治行動だけでなく、彼らの文芸及び美術思想・活動の側面も評価した。

中等学校の学生たちが、ボスニア社会における少数の知的エリート層であったことは事実であるが、「近代的規律への不適応」は必ずしも反当局的な政治活動に限定されていたとは言えないだろう。また彼らの関心・行動領域が、文芸や芸術などの文化活動にのみ限定されていたとも言えないだろう。ひらたく言えば、先行研究に現れる青年層は過度に高尚なイメージを与える。ヴァン・ヘンゲルもサライェヴォ事件の主役ガブリロ・プリンチプに対するミクロヒストリー的・社会史的アプローチにより、イデオロギーやナショナリズムではなく、「狭間のアイデンティティ」、即ち不十分な社会的帰属承認が、社会に不満をもつ青年の疎外感を強めさせ、テロという手段に走らせた可能性を指摘している。

[Okey, Robin, Taming Balkan Nationalism: The Habsburg Civilizing Mission in Bosnia 1878-1914, Oxford: Oxford University Press, 2007, p. 193; Palavestra, Predrag, Književnost Mlade Bosne, knj. I., Sarajevo: Svjetlost, 1965, str. 21; Guido van Hengel, “Up in frames” – Gavrilo Princip and the City, Prilozi 43, Sarajevo: Institut za istoriju, 2014, str. 94.]

 

注1: 青年と訳されるmladは形容詞で「若い」の意である。この語は19世紀末クロアチア文芸・芸術領域における新たな思潮(印象主義や象徴主義)を巡る対立において、肯定的な人々が反対派からの差異化を図る為に使用した。その為、生物学的世代という意味より、デュルタイに発する社会的概念として機能していた。他方で、子供と青年との区別も未だ曖昧であり、特に思春期以降の子供を指す際に、「大人な子供 odraslo dijete」という奇妙な単語がよく使用されていた。「青年ボスニア」は中等学校の学生が主体であったが、「青年」は多義的な語彙であったことには留意しなければならない。

[Rf. Krtalić, Ivan (pri.), Polemike u Hrvatskoj Književnosti. 8 Nekrolog Hrvatskog Modernog, Zagreb: Mladost, 1983.]

注2: 中等学校は日本の中学校ではなく高校に相当する。

 

 

実際今も昔も変わらず、若者は深夜に遊びほうけていた。

10代の「不良」が深夜のカフェにたむろして賭け事に興じる様や売春宿にいりびたる様はしばしば批判と嘆きの対象となっている。この「不良」には中等学校の生徒だけではなく、徒弟や工場労働者なども含まれているが。

[Usp. Djeca – skitnice, Srpska riječ god. VI br. 81 (13. / 26. IV 1910), str. 3; Mjere protiv nevaljanih đaka, Srpska riječ god. X br. 27 (6. / 19. II 1914), str. 3.]

 

売春宿の事例が示す様に、若い時に女性に夢中になるのは古今東西同じ。

サライェヴォのギムナジウム生徒ミーチョ・ユラシノヴィチ君は、度々女性にラブレターを送って問題になっていた。1907年9月プロフェッサー・チャイチ氏の娘に、彼女の同級生にラブレターを届けてくれるように依頼したのだが、彼女に「あなたのポストじゃありません」と断られてしまった。しかし別の日に通りでこのチャイチ氏の娘に遭遇した折に、ミーチョ君は彼女に「役立たず」と暴言を吐いたことが、彼女の父親の耳に入り騒動となった。結果彼はギムナジム側から譴責処分を受けることになった。プレイボーイ気取りの哀れな末路といったところでしょうか。

[Arhiv Bosne i Hercegovine. Fond Zemaljske vlade u Sarajevu. k. 108 1907, š. 120-54.]

 

他方、ボスニア北東部の町トゥズラにもギムナジムが存在した。

ギムナジム生徒による居酒屋での騒乱や喧嘩が相次ぎ、当然のことながら市民からの評価はダダ下がり。

トゥズラのギムナジウム学生は汚名返上の為に、1911年6月自分たちで催しものを開催する破目に。具体的な内容は史料に記述されていないが、一般的には音楽を演奏したり、詩を朗読したりする文化的展示が中心だった。

[Arhiv Bosne i Hercegovine. Fond Zemaljske vlade u Sarajevu. k. 216 1911, š. 71-156 / 46.]

 

深夜にカフェでの賭け事、悪所通い、恋愛や呑み屋での乱闘。

ここに政治、文学や芸術について論争する「高尚」な学生の姿はない。しかし、これも当時の中等学校の学生たちの日常の一部であった。

ボスニアではなく、中等学校でもなく高等学校に相当するザグレブ大学であるが、その学生生活に関する以下の研究書でも、主として哲学部学生による、呑み屋での乱闘がしばしば登場する。

Tihana Luetić, Studenti Sveučilišta u Zagrebu (1874-1914). Društveni život, svakodnevnica, kultura, politika, Zagreb: Srednja Europa, 2012.

Galib Šljivo, Omer-paša Latas u Bosni i Hercegovini 1850-1852., Sarajevo: Svjetlost, 1977, 220 str.

 

 

 

オメル・パシャ・ラタス in ボスニア・ヘルツェゴヴィナ 1850-1852』を暇つぶし乃至逃避として読む。

オメル・パシャ・ラタス(1806-1871)は、ボスニア史に縁のない人には誰それ?となるが、ボスニア史を少し齧ったことのある人にとっては非常に有名な人物。題名が示す通り、彼は1850年から1852年のボスニアに多大な影響を与えた、オスマン帝国の軍人である。

 

タンズィマート期オスマン帝国は、西欧化としての近代化を目指す。ボスニアでの改革は主として、スィパーヒー層などの封建層の解体と新式軍隊への徴兵制導入及び税制改革の二本柱。1848年ボスニア州太守ターヒール・パシャが、宗派に関係なく十分の一税の課税を行うことを通告したことで、従来非課税であったムスリム、特に名士層が反発し、ボスニア北西部クライナ地方で蜂起が発生。鎮圧を試みるも初戦で敗北した上に軍内にコレラが発生するなどして、ターヒール・パシャは鎮圧に失敗し州都トラヴニクで病没。

不安定化したボスニアの治安を回復させるために中央から派遣されたのが、国内叛乱鎮圧のエキスパートであったオメル・パシャ・ラタスである。エジプト藩王国軍をシリアで破り、レバノンやアルバニアの叛徒を鎮圧し、41歳の若さで元帥に駆け上がった人物である。ただし彼はトルコ人ではなく亡命クロアチア人。ハプスブルク帝国支配下クロアチア東部スラヴォニア地方の軍人一家に生まれた。自身も軍人となったが、父親の公金使い込み及び女性を巡る上司との三角関係により出世の見込みが断たれた為に、ボスニア経由でオスマン帝国に亡命した。君府で当時皇太子だったアブドゥル・メジトの家庭教師の一人となり、出世の糸口をつかんだのである。

1850年ボスニアに少数の正規軍と共に来訪した彼は、名士層の内で反抗的な連中のみならず、恭順的であっても有力であれば根こそぎ(殺害と言う意味ではなく)粛清した。結果1860年代のボスニアに実施される改革への反対者を一掃する事に貢献したが、彼自身は改革を推進する事ができなかった。それは正教徒の扱いと交易停止問題で、隣国ハプスブルク帝国、特にその代理人であった駐ボスニア総領事ディミトリイェ・アタナスコヴィチと対立することになった為である。当時アドリア海に面したストリナの港湾開放を巡って墺土両国の関係は緊張しており、ボスニアも国際問題化することを恐れたオスマン帝国中央によって18524月に彼は召還されることとなった。

彼は破壊者であったが、建設者ではなかった訳である。この点は1864年にボスニアへの徴兵制導入に成功するアフメト・ジェヴデト・パシャが、備忘録の中でオメル・パシャの失敗は彼が拙速であった故と記述している。

 

いずれにしろ、本書は1977年刊行、社会主義真っ盛りという感じの論旨。

即ち「守旧的・封建的な名士層 × (ブルジョワ)進歩主義的・資本主義的改革者としてのオメル・パシャ・ラタス」という構図である。

特にヘルツェゴヴィナ県太守であったアリ・パシャ・リズヴァンベゴヴィチ・ストチェヴィチの描き方がひどい。彼は、1831年から翌年にかけてボスニアを自立的に支配したフセイン・カペタン・グラダシュチェヴィチに対して、オスマン帝国に味方してフセイン政権崩壊に貢献した。その恩賞として、パシャの称号とヘルツェゴヴィナを自立的に統治する権限を与えられた。この人物を守旧派の首魁として描いている。

しかし筆者ガリブ・シュリヴォがその根拠として挙げるものは、君府に召喚された名士層の証言、モスタル(アリ・パシャのお膝元の町)の叛乱指導者がダルマチアに亡命した後の証言と総領事アタナスコヴィチの見解である。最初の二つは、証言時点でアリ・パシャが(物理的・政治的に)死亡しており、死人に口なしで責任を押し付けられただけである。最後は、ハプスブルク帝国の利害から生じた見解であり客観性に欠ける。1851年にボスニア北東部ポサヴィナ地方で叛乱が生じると同時に、アリ・パシャの版図内モスタルでも叛乱が生じた。これが偶然と言えるだろうか。特にこれまでヘルツェゴヴィナで如何なる騒乱も許すことのなかったアリ・パシャの支配なのに、こんな時に限ってモスタルで叛乱が起きるだろうか。このように筆者ガリブ・シュリヴォは言うが、単なる状況証拠じゃん! オメル・パシャ自身もアリ・パシャを、ボスニア全体を巻き込んだ騒乱の頭目と見做していたと述べているが、前述した様にオメル・パシャは改革の障害となり得る、全ての有力名士層の排除を目論んでおり、ヘルツェゴヴィナを自立的に統治していたアリ・パシャは眼の上のたんこぶでしかなかった。彼は都合の良いスケープゴートとして始末されたのだろう。

捕虜としてオメル・パシャの軍に同行していた際、リヴノ近郊の陣営で見張り兵士の銃の暴発という「偶発的事故」によりアリ・パシャは如何なる証言も残さずにこの世を去る事となる。

 

最後にターヒール・パシャもオメル・パシャ・ラタスも、ボスニアとハプスブルク帝国との国境管理に非常に神経を尖らせている。それは1848年だからである。世界史を履修し人は分かるであろうが、この年フランスでは二月革命により七月王政が崩壊し、ハプスブルク帝国でもウィーン、プラハ及びブダペストで騒乱が起き、フォア・メルツと呼ばれた一時代が終焉を迎えている。特にその余波としてのスラヴ主義の流入にオスマン帝国は神経を尖らせていた。世界史で1848年革命とオスマン帝国との関係には触れないが、隣国同士であった以上その影響を免れる事は出来なかった訳である。