逃避としての読書 | Tarih-i Bosna

Tarih-i Bosna

ボスニア近代史を中心に: 備忘録

Galib Šljivo, Omer-paša Latas u Bosni i Hercegovini 1850-1852., Sarajevo: Svjetlost, 1977, 220 str.

 

 

 

オメル・パシャ・ラタス in ボスニア・ヘルツェゴヴィナ 1850-1852』を暇つぶし乃至逃避として読む。

オメル・パシャ・ラタス(1806-1871)は、ボスニア史に縁のない人には誰それ?となるが、ボスニア史を少し齧ったことのある人にとっては非常に有名な人物。題名が示す通り、彼は1850年から1852年のボスニアに多大な影響を与えた、オスマン帝国の軍人である。

 

タンズィマート期オスマン帝国は、西欧化としての近代化を目指す。ボスニアでの改革は主として、スィパーヒー層などの封建層の解体と新式軍隊への徴兵制導入及び税制改革の二本柱。1848年ボスニア州太守ターヒール・パシャが、宗派に関係なく十分の一税の課税を行うことを通告したことで、従来非課税であったムスリム、特に名士層が反発し、ボスニア北西部クライナ地方で蜂起が発生。鎮圧を試みるも初戦で敗北した上に軍内にコレラが発生するなどして、ターヒール・パシャは鎮圧に失敗し州都トラヴニクで病没。

不安定化したボスニアの治安を回復させるために中央から派遣されたのが、国内叛乱鎮圧のエキスパートであったオメル・パシャ・ラタスである。エジプト藩王国軍をシリアで破り、レバノンやアルバニアの叛徒を鎮圧し、41歳の若さで元帥に駆け上がった人物である。ただし彼はトルコ人ではなく亡命クロアチア人。ハプスブルク帝国支配下クロアチア東部スラヴォニア地方の軍人一家に生まれた。自身も軍人となったが、父親の公金使い込み及び女性を巡る上司との三角関係により出世の見込みが断たれた為に、ボスニア経由でオスマン帝国に亡命した。君府で当時皇太子だったアブドゥル・メジトの家庭教師の一人となり、出世の糸口をつかんだのである。

1850年ボスニアに少数の正規軍と共に来訪した彼は、名士層の内で反抗的な連中のみならず、恭順的であっても有力であれば根こそぎ(殺害と言う意味ではなく)粛清した。結果1860年代のボスニアに実施される改革への反対者を一掃する事に貢献したが、彼自身は改革を推進する事ができなかった。それは正教徒の扱いと交易停止問題で、隣国ハプスブルク帝国、特にその代理人であった駐ボスニア総領事ディミトリイェ・アタナスコヴィチと対立することになった為である。当時アドリア海に面したストリナの港湾開放を巡って墺土両国の関係は緊張しており、ボスニアも国際問題化することを恐れたオスマン帝国中央によって18524月に彼は召還されることとなった。

彼は破壊者であったが、建設者ではなかった訳である。この点は1864年にボスニアへの徴兵制導入に成功するアフメト・ジェヴデト・パシャが、備忘録の中でオメル・パシャの失敗は彼が拙速であった故と記述している。

 

いずれにしろ、本書は1977年刊行、社会主義真っ盛りという感じの論旨。

即ち「守旧的・封建的な名士層 × (ブルジョワ)進歩主義的・資本主義的改革者としてのオメル・パシャ・ラタス」という構図である。

特にヘルツェゴヴィナ県太守であったアリ・パシャ・リズヴァンベゴヴィチ・ストチェヴィチの描き方がひどい。彼は、1831年から翌年にかけてボスニアを自立的に支配したフセイン・カペタン・グラダシュチェヴィチに対して、オスマン帝国に味方してフセイン政権崩壊に貢献した。その恩賞として、パシャの称号とヘルツェゴヴィナを自立的に統治する権限を与えられた。この人物を守旧派の首魁として描いている。

しかし筆者ガリブ・シュリヴォがその根拠として挙げるものは、君府に召喚された名士層の証言、モスタル(アリ・パシャのお膝元の町)の叛乱指導者がダルマチアに亡命した後の証言と総領事アタナスコヴィチの見解である。最初の二つは、証言時点でアリ・パシャが(物理的・政治的に)死亡しており、死人に口なしで責任を押し付けられただけである。最後は、ハプスブルク帝国の利害から生じた見解であり客観性に欠ける。1851年にボスニア北東部ポサヴィナ地方で叛乱が生じると同時に、アリ・パシャの版図内モスタルでも叛乱が生じた。これが偶然と言えるだろうか。特にこれまでヘルツェゴヴィナで如何なる騒乱も許すことのなかったアリ・パシャの支配なのに、こんな時に限ってモスタルで叛乱が起きるだろうか。このように筆者ガリブ・シュリヴォは言うが、単なる状況証拠じゃん! オメル・パシャ自身もアリ・パシャを、ボスニア全体を巻き込んだ騒乱の頭目と見做していたと述べているが、前述した様にオメル・パシャは改革の障害となり得る、全ての有力名士層の排除を目論んでおり、ヘルツェゴヴィナを自立的に統治していたアリ・パシャは眼の上のたんこぶでしかなかった。彼は都合の良いスケープゴートとして始末されたのだろう。

捕虜としてオメル・パシャの軍に同行していた際、リヴノ近郊の陣営で見張り兵士の銃の暴発という「偶発的事故」によりアリ・パシャは如何なる証言も残さずにこの世を去る事となる。

 

最後にターヒール・パシャもオメル・パシャ・ラタスも、ボスニアとハプスブルク帝国との国境管理に非常に神経を尖らせている。それは1848年だからである。世界史を履修し人は分かるであろうが、この年フランスでは二月革命により七月王政が崩壊し、ハプスブルク帝国でもウィーン、プラハ及びブダペストで騒乱が起き、フォア・メルツと呼ばれた一時代が終焉を迎えている。特にその余波としてのスラヴ主義の流入にオスマン帝国は神経を尖らせていた。世界史で1848年革命とオスマン帝国との関係には触れないが、隣国同士であった以上その影響を免れる事は出来なかった訳である。