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Tarih-i Bosna

ボスニア近代史を中心に: 備忘録

本日のサライェヴォは小雨が降る寒い日。Tシャツで集合住宅一階にあるミニマーケットに食べ物を買いに出かけると、観光客と思しき集団が寒そうに歩いていました。

 

http://www.klix.ba/vijesti/bih/putnici-ne-moraju-na-taksi-otvorena-autobuska-linija-aerodrom-bentbasa/160808064

ようやくサライェヴォ空港と市街を結ぶバスが走ることに。報道によれば嘗て一時期このバスラインは存在したようです。直ぐに廃線になったようですが。

歩いて行けないことはないが、路面電車の停留所は遠いので、タクシー以外市内へ移動する選択肢は存在しない。其の上サライェヴォ空港前のタクシー乗り場は「サライェヴォ・タクシー」会社が独占している為、基本的にぼられます。

空港敷地前のクルト・ショールク通りに「赤タクシー」会社のタクシーが停車しているので、こちらを使うことを薦めます。またその先にある住宅地を6700m抜けた所に、ドブリニャのバス・ターミナルがあります。ただ日本から空路で到着する場合、夜になる便が多いので、知らない人にとって空港敷地を出てタクシーなりバスの停留所を探すなりすることはハードルが高いかもしれません。また確実にそこに「赤タクシー」のタクシーがいる保証もありません。タクシー免許のない、所謂白タクもそこで営業したりしています。小生も白タクであろう、スイカを抱えたおじいさんの車を使ったことがありますが。

 

 

1911101日から3日にかけてサライェヴォに滞在した外交官信夫淳平は、その備忘録である『東歐の夢』の中で、103日ヤイツェからバニャルーカにかけての山道で偶々利用した乗合馬車に関して以下のように叙述しています。

 

 

信夫淳平: 1919:「一寸氣に懸かることがある、是れから七時間かかるとすると、バンヤルカ着は午後九時前後である、一時間懸値があるとすれば十時になる、雨がポツポツ降り出して來た、路が悪くなると或は十一時になるかも知れない、半分道で日が暮れる、山路でたつた一人、こちらは案内知らずの外國人である、向ふは此の山坂を跨に掛けて居る雲助である、彼れ悪性を出し強慾な要求でもして來たならばどうであろう、素手と素手の格闘ならば私でも互角の戰は出來る、[以下略]

[信夫淳平 『東歐の夢』 外交時報社 1919 234]

 

 

バニャルーカとヤイツェを結ぶ山道は、ヴルヴァス川の渓谷に面した、非常に狭い道ですが、現在も信夫淳平が「満目絶景」と評す、自然の奇観を楽しめます。ザグレブとサライェヴォを結ぶバスが、このルートを日に3度走っています。予定では78時間程ですが、小生が使った際には10時間近くかかり非常に疲れたので、二度と使いたくはありません。

ただこの山路で日没後に、乗り合い馬車に一人という状況は不安を呼び起こすに充分であったろうと推測できます。結果としては途中で「坊主」が相客となり、無事にバニャルーカに着くこととなり、杞憂に終わります。この「坊主」の宗教が指定されていない為、イスラム、カトリック、正教あるいはユダヤ教なのか分かりませんが、漢字で「神」という字を書いて、仏教や儒教について「怪しいドイツ語」で話しかけてくる、お茶目な人だったようです。

 

ハプスブルク帝国がベルリン会議の裁定により、ボスニアの行政をオスマン帝国から受け継いだ18787月末にサライェヴォ北方にあるジェプチェ近郊を、駐サライェヴォ・イタリア領事であったルイージ・ペロ Luiggi Perrodは、オーストリア国籍の商人レッヒネル Lechnerと同じ乗合馬車で旅していました。そこをザプーティエ崩れのムスリム匪賊たちに金銭目当てで襲撃され、御者と共に皆殺しにされます。

当時のボスニアが混乱状態にあったとしても、外交官が追剥に殺害されるという事態は凄まじいと言えるでしょう。小生はこの事件を偶々目にした論文で知っただけで、この後この殺人事件がどう扱われたのかは、当該論文に記述されていない為残念ながら分かりません。

 [Rade Petrović, Otpor austrougarskoj okupaciji i prilike u Bosni i Hercegovini 1878. godine, Prilozi god. XIV – br. 14-15, Sarajevo, 1978, str. 371-398.]

 

: ザプーティエ zaptiyeはオスマン帝国の憲兵組織。1878年夏にボスニアを接収する為に、ハプスブルク帝国は派兵しますが、ムスリムを中心に武装抵抗が各地で生じます。同時に行政権がハプスブルク帝国に移行しながらも接収途次であった為、ボスニアのオスマン行政当局は権威を喪失し、ボスニア各地では無政府状態が現出することとなっていました。

 

1878年と1911年とを並列することは不適当ですし、1878年の殺人は雲助が犯人でもありませんが、「交通トラブル?」は身分や時代に関係なく降りかかるものであり、白タク利用の際に一抹の不安を感じた小生には、信夫淳平の気持ちがよく分ります。

 

 

信夫淳平: 1919:「バンヤルカ驛を發してからアグラム迄の間、ボスニエンとクロアシエンとの境であるスンヤ驛の乗換で單調を破つた外は別に記する程のこともない」

[信夫淳平 前掲書 242]

 

バニャルーカからザグレブまでの風景描写に関して信夫淳平は非常に淡白です。しかしこの記述も、ヴルヴァス渓谷の描写と同じく正鵠を得ている様に小生には思われます。手頃な写真を撮影していないので、国境を越えて直ぐのボサンスカ・グラディシュカ近郊のトイレ休憩の際に映した写真とスラヴォニアの東端オシエク近郊を列車から映した写真を添付します。基本的に、このような風景が延々と続いており、信夫淳平も飽きたんだろうな。

 

: アグラム Agramはザグレブのドイツ語表記。

 

 

 

 

 

Bernd Weiler, Die Ordnung des Fortschritts. Zum Aufstieg und Fall der Fortschrittsidee in der »jungen« Anthropologie, Bielefeld: Transcript Verlag, 2006, 521 S.

 

 

 

久しぶりのドイツ語本『進歩の秩序: 「若き」人類学における進歩概念の興亡』。

著者ベルント・ヴァイラーが2004年にグラーツ大学に提出した社会学の博士論文を出版したものだそうだ。副題が示す通り、19世紀後半から20世紀前半、主として戦間期までの人類学において「進歩」という概念の歩んだ歴史が探求されている。

 

前半は「興」に関する部分。

まずドイツ語圏「科学」における、重点を「事実収集」に置くか「理論化」に置くかという対立の歴史が整理され、ダーウィンが唱えた進化論への対応の相違が呈示される。その上で、進化論が人類学に対して与えたインパクトとして、従来の普遍史においては枠外に置かれた「歴史無き民族」を歴史の枠内に取り込むことで科学的探究の対象にした点が評価されている。

1859年から1871年まで、年毎に人類学の知見と社会における「進歩」の相互作用に関して、科学的論文のみならず紀行文や小説などの膨大な引用を駆使して描写するスタイルは奇抜で面白いが、人類学への貢献が歴史化であるという結論自体は非常に平凡である。

 

後半は「亡」に関する部分。

具体的な分析対象として、フランツ・ボアズと民族学ウィーン学派のふたつが取り上げられている。小生はこの両者に関してほとんど知らない為、後半は興味深く読み事が出来た。

ボアズの文化相対主義には、各民族が個別・独自に「進歩」していくという相対主義的理解と共に、相互作用を通じて一つの人類史へと収斂するという普遍主義的或いは、彼が批判した従来の進歩主義的理解との奇妙な同居が見られることが析出される。更にアメリカに移住したドイツ系ユダヤ人であるという彼の背景と、戦間期アメリカ社会におけるドイツ人コミュニティとの関係が分析されて、上述した矛盾が社会学的に説明されている点は非常に興味深かった。それによれば、彼はアメリカ社会の所謂「人種の坩堝」に対して、ユダヤ性は同化されると見做していたが、熱烈な愛国主義者としてドイツ性は同化されないと考えていた。つまり自身のユダヤ人的部分に関しては普遍主義的進化主義者として、ドイツ人的部分に関しては相対主義者として行動していた訳である。

ウィーン学派も個々に独立した民族や部族の存在と彼等の交流という要素を重視し、文化伝播主義に立脚して定向進化的な進歩主義に反対した。しかし反面で、孤立した民族・部族が人類の「原文化Urkultur」の要素を残すものと見做して、「始原の人Urmensch」研究を通じて一つの人類史を志向する矛盾も併せ持っていた。ウィーン学派を主導したウィルヘルム・シュミットが神学者の側面を有していた点と第一次大戦後の「赤いウィーン」への危機意識が、この矛盾した傾向の一つの背景として提示される。結局ウィーン学派が批判したのは、従来の進化論的アプローチが謳った「進歩」としての人類史だけであり、代わりにそれを転倒させただけの「堕落」としての人類史を対置したに過ぎなかった。

 

 

進化論的進歩主義と優生学的「生政治」との関係は一般によく語られる。しかし本書を読むと、反進化論主義・文化相対主義が必ずしも薔薇色でないことも分かる。

331頁目に、1915年に出版された『Democracy versus the Melting-pot』から一文が引用されている。

Horace M. Kallen: 1915: Men may change their clothes, their politics, their wives, their religions, their philosophies, to a greater or lesser extent: they cannot change their grandfathers. Jews or Poles or Anglo-Saxons, in order to cease being Jews or Poles or Anglo-Saxons, would have to cease to be. The selfhood which is inaleinable in them, and for th [sic] realization of which they require inalienable liberty, is ancestrally determined, and the happiness which they pursue has its form implied in ancestral endowment.

 

反進化論主義的文化相対主義と決定論的アプローチとの見事な結合である。

 

本書を通じて思ったことは、ボアズらが批判した従来の進化論的人類学が依拠していたのは、定向進化説である。そこでは単一の「人類」が進化或いは進歩の主体である。結果非欧米人は「高低」という枠内で捉えられた。この価値付けを批判したのが反進化論主義的文化相対主義であり、いわば「みんな違ってみんなイイ」という訳である。しかしこの主張は「彼我」という軸を持ち込んだ。「彼」は永久に「彼」に留まり、「我」にはならないという主張は、「彼」の尊重と同時に排除という選択肢を可能にしたのではないかという事である。

同ブログで以前引用した、ムラデン・ロルコヴィチによる1941年の発言「クロアチア民族は不幸を齎す要素全て、異質(strani)である要素全てから浄化されなければならない」が想起される。

1930年代から1940年代前半の優生学的生政治を、単純に進化論的進歩主義の申し子としてのみ見るのではなく、1920年代から30年代における定向進化批判から生まれてきた文化相対主義というアプローチの流行を歴史的に考慮する必要があるのだろう。

 

第一次大戦以降に疎い小生には非常に参考になった。しかし本書はもう少し「スリム」に出来たであろうと思われる。例えばボアズの相対主義としてのドイツ愛国主義と普遍主義との同居に関する具体例の一つとして、第一次大戦後のグラーツ大学に行われた書籍・雑誌寄贈の支援事業が40頁近くに渡って描写される。グラーツ大学アーカイヴ史料を駆使して、戦後の困窮が多数の奨学金申請事例の列挙から描かれ、次いで大学自体の困窮が、冬季暖房燃料たる石炭不足解消の様々な方策を通じて描かれる。かかる条件下でのボアズの努力が評価され、名誉博士号授与までの顛末とその授与決定史料が全文引用される形で描かれる。筆者自身も「余談Ekskurs」と断っているが、この部分は本文中で短く紹介するか、別の独立した論文として発表するべきであった。この筆者はボアズ研究から研究者生活をスタートし、グラーツ大学に在籍していたアドバンテージにより同大学アーカイヴ史料に容易にアクセスできた故に、この「余談」部分が筆者の独壇場であったことは認めるが、論文構成を考慮せず、見つけた史料は全部使いたいという、歴史研究初心者みたいなスタイルは如何なものか。膨大な引用を使用する筆者のスタイル自体は批判しないが、引用ではなく筆者による梗概でも十分な部分も多々あり全体として冗長感が否めない。但しもしかしたら本書は「スリム」な形式で出版されていたかもしれない。本書の元である博士論文は出版の予定がなかったが、2006年筆者であるベルント・ヴァイラーが心臓発作により35歳の若さで急逝し、死後出版されたものである為、筆者による手直しが入っていないからである。

 

最後に本書は学術作品の構成として難があるというだけで、脱線していく「余談」部分が面白くない訳ではない。上述した「興」部分の1859-1871年編年形式の最後に「追記」として1872年の社会がジュール・ヴェルヌの『80日間世界一周』(1872)によって描かれる。ヴェルヌ好きとして楽しかった。また石炭確保の為に、ユーゴスラヴィア王国からの留学者に便宜を与えて、ユーゴから石炭の見返りを引き出そうというグラーツ大学当局の思惑には笑ってしまった。

ヤゴダ・トゥルヘルカ Jagoda Truhelka (1864-1959)はクロアチア東部のオシエク出身の女教師であり児童文学家である。父親はチェコからの移住者であるが、オシエクを代表する教育者でもあった。父親の死後、1878年ザグレブに一家で移住し、1882年女子師範学校を卒業した。オシエクやゴスピッチの小学校教師を勤めた後、1892年ザグレブに新設された女子リセの教師として招聘される。1901年ボスニア北部のバニャルーカ女子高等学校校長に招聘され、その後サライェヴォ女子高等学校やサライェヴォ女子師範学校で働き、年金生活に入る1923年までボスニアが活動の舞台であった。一歳下の弟であるチロ・トゥルヘルカもサライェヴォの州立博物館で学芸員・館長として働いていた。

 

この女性の書簡を読むために今回ザグレブに数日滞在していたが、以下の書籍が欲しいと思っていたところ、馴染みのクロアチア学校博物館付属図書室の司書さんが、ダブりがあるということでくれた。

Ranka Jindra, Jagoda Truhelka pedagoški i društveni rad (1864-1957), Zagreb: Školske novine, 1982, 144 str.

 

 

 

そこで、ランカ・インドラの『ヤゴダ・トゥルヘルカ 教育及び社会活動 (1864-1957)』を空港での待ち時間と機内時間で読了。

ヘルバルト主義が流行していたクロアチアで、知育ではなく、感情と意志の陶冶に重点を置いた彼女の教育思想の新しさが強調されている。特に、善と美を教育の目標として設定したが、それは古典的な真善美の一致に基づくのではなく、両者が受け手の内に引き起こす快感情の類似性に基づくものであったという指摘は、現在の小生の関心からは有益な指摘である。他方で、彼女の美学は形式主義美学の系譜に位置しつつ、感情を低次と高次に分け、美的感情は美的対象の内に普遍的な「神性」を読み取る点に見ており、知育を否定するものではなかった。

ただヤゴダ・トゥルヘルカの研究であるため、彼女の新しさを強調せねばならないことは認めるが、感情や意志の陶冶を主張したのは、別段彼女だけではなかった。彼女と同世代のリューデヴィト・ドゥヴォルニコヴィチ (1861-1933)が代表的である。また彼女の人間観にF・フェルスター Foersterが与えた影響を強調しているが、その解釈は全面的に受容しがたい。彼女の人間観或いは心理学を、1910年に出版された『魂の帝国にて』と1920年代の諸論考を使用して論じているが、ヤゴダ・トゥルヘルカがフェルスターの著作に初めて触れるのは1910年の事であり、『魂の帝国にて』執筆時には未見であり、1920年代の諸論考と同じ土俵で論じることは不可能であるからである。また彼女の人間に対する不信は、シュテフカ・バティニチが指摘した1880年代の「黒い教育学」に共通して見られる「子供観」であり、フェルスターにのみ起因するというのは言い過ぎであろう。バティニチの論考は2004年刊行であり、本書が参照できなかった以上責められはしないが、フェルスターが彼女の心理学に果たした役割を非常に強調している点が目についた。

刊行年に係わるが、1982年は未だ社会主義ユーゴの時代であり、彼女の個人教育の重視に、プチブル主義や社会的視点の欠如を批判している点はほほえましい。かかる「偏向」があるが、彼女の心理学・教育学に関する纏まった唯一の先行研究として有益であった。

[Štefka Batinić, “Crna pedagogija” u hrvatskim dječjim časopisima 19. stoljeća, Anali za povijest odgoja 4 (2004), str. 37-49.]

 

一生を教育と執筆に捧げたヤゴダ・トゥルヘルカは独身で一生を終えた。こうして見ると、厳格な女性をイメージするが、違う一面が今回調査した書簡から浮かび上がる。

ヘルミナ・トミチ宛てに、1902510日付でバニャルーカから送られた書簡の中で、校長職が忙しく書きたいものも書けないと嘆きながらも、暇を見つけて自転車を走らすことは、「とても気持ちの良いスポーツ」であると述べ、ここでは何をしても批判する人がいないから、自転車も乗り回せると喜ぶ、ハイカラな彼女の姿を見ることが出来る。

[Zbirka rukopisa i starijih knjiga u Nacionalnoj i sveučilišnoj knjižnici u Zagrebu, R7414b: Pismo Jagode Truhelke Hermini Tomić, dne 10. V 1902.]