本日のサライェヴォは小雨が降る寒い日。Tシャツで集合住宅一階にあるミニマーケットに食べ物を買いに出かけると、観光客と思しき集団が寒そうに歩いていました。
ようやくサライェヴォ空港と市街を結ぶバスが走ることに。報道によれば嘗て一時期このバスラインは存在したようです。直ぐに廃線になったようですが。
歩いて行けないことはないが、路面電車の停留所は遠いので、タクシー以外市内へ移動する選択肢は存在しない。其の上サライェヴォ空港前のタクシー乗り場は「サライェヴォ・タクシー」会社が独占している為、基本的にぼられます。
空港敷地前のクルト・ショールク通りに「赤タクシー」会社のタクシーが停車しているので、こちらを使うことを薦めます。またその先にある住宅地を6・700m抜けた所に、ドブリニャのバス・ターミナルがあります。ただ日本から空路で到着する場合、夜になる便が多いので、知らない人にとって空港敷地を出てタクシーなりバスの停留所を探すなりすることはハードルが高いかもしれません。また確実にそこに「赤タクシー」のタクシーがいる保証もありません。タクシー免許のない、所謂白タクもそこで営業したりしています。小生も白タクであろう、スイカを抱えたおじいさんの車を使ったことがありますが。
1911年10月1日から3日にかけてサライェヴォに滞在した外交官信夫淳平は、その備忘録である『東歐の夢』の中で、10月3日ヤイツェからバニャルーカにかけての山道で偶々利用した乗合馬車に関して以下のように叙述しています。
信夫淳平: 1919:「一寸氣に懸かることがある、是れから七時間かかるとすると、バンヤルカ着は午後九時前後である、一時間懸値があるとすれば十時になる、雨がポツポツ降り出して來た、路が悪くなると或は十一時になるかも知れない、半分道で日が暮れる、山路でたつた一人、こちらは案内知らずの外國人である、向ふは此の山坂を跨に掛けて居る雲助である、彼れ悪性を出し強慾な要求でもして來たならばどうであろう、素手と素手の格闘ならば私でも互角の戰は出來る、[以下略]」
[信夫淳平 『東歐の夢』 外交時報社 1919年 234頁]
バニャルーカとヤイツェを結ぶ山道は、ヴルヴァス川の渓谷に面した、非常に狭い道ですが、現在も信夫淳平が「満目絶景」と評す、自然の奇観を楽しめます。ザグレブとサライェヴォを結ぶバスが、このルートを日に3度走っています。予定では7・8時間程ですが、小生が使った際には10時間近くかかり非常に疲れたので、二度と使いたくはありません。
ただこの山路で日没後に、乗り合い馬車に一人という状況は不安を呼び起こすに充分であったろうと推測できます。結果としては途中で「坊主」が相客となり、無事にバニャルーカに着くこととなり、杞憂に終わります。この「坊主」の宗教が指定されていない為、イスラム、カトリック、正教あるいはユダヤ教なのか分かりませんが、漢字で「神」という字を書いて、仏教や儒教について「怪しいドイツ語」で話しかけてくる、お茶目な人だったようです。
ハプスブルク帝国がベルリン会議の裁定により、ボスニアの行政をオスマン帝国から受け継いだ1878年7月末にサライェヴォ北方にあるジェプチェ近郊を、駐サライェヴォ・イタリア領事であったルイージ・ペロ Luiggi Perrodは、オーストリア国籍の商人レッヒネル Lechnerと同じ乗合馬車で旅していました。そこをザプーティエ崩れのムスリム匪賊たちに金銭目当てで襲撃され、御者と共に皆殺しにされます。
当時のボスニアが混乱状態にあったとしても、外交官が追剥に殺害されるという事態は凄まじいと言えるでしょう。小生はこの事件を偶々目にした論文で知っただけで、この後この殺人事件がどう扱われたのかは、当該論文に記述されていない為残念ながら分かりません。
[Rade Petrović, Otpor austrougarskoj okupaciji
i prilike u Bosni i Hercegovini 1878. godine, Prilozi god. XIV – br.
14-15, Sarajevo, 1978, str. 371-398.]
注: ザプーティエ zaptiyeはオスマン帝国の憲兵組織。1878年夏にボスニアを接収する為に、ハプスブルク帝国は派兵しますが、ムスリムを中心に武装抵抗が各地で生じます。同時に行政権がハプスブルク帝国に移行しながらも接収途次であった為、ボスニアのオスマン行政当局は権威を喪失し、ボスニア各地では無政府状態が現出することとなっていました。
1878年と1911年とを並列することは不適当ですし、1878年の殺人は雲助が犯人でもありませんが、「交通トラブル?」は身分や時代に関係なく降りかかるものであり、白タク利用の際に一抹の不安を感じた小生には、信夫淳平の気持ちがよく分ります。
信夫淳平: 1919:「バンヤルカ驛を發してからアグラム迄の間、ボスニエンとクロアシエンとの境であるスンヤ驛の乗換で單調を破つた外は別に記する程のこともない」
[信夫淳平 前掲書 242頁]
バニャルーカからザグレブまでの風景描写に関して信夫淳平は非常に淡白です。しかしこの記述も、ヴルヴァス渓谷の描写と同じく正鵠を得ている様に小生には思われます。手頃な写真を撮影していないので、国境を越えて直ぐのボサンスカ・グラディシュカ近郊のトイレ休憩の際に映した写真とスラヴォニアの東端オシエク近郊を列車から映した写真を添付します。基本的に、このような風景が延々と続いており、信夫淳平も飽きたんだろうな。
注: アグラム Agramはザグレブのドイツ語表記。



