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Tarih-i Bosna

ボスニア近代史を中心に: 備忘録

今日から7日まで断食月明けの三連休。

観光客向けの店舗でも一部が休むなど、この時期は市内の大半が閉店。市内の人通りが少ない。

 

新しいテーマに取り組んでいるので、ここ最近通い詰めている、ボスニア・ヘツルェゴヴィナ公文書館は本日も営業中。但し午前のみ。

 

 

[ボスニア・ヘルツェゴヴィナ公文書館リーディングルーム]

 

歴史研究者ならば誰でも遭遇する困難ですが、テーマにぴったりの史料がなかなか見つからない。手持ちの史料でがんばろう! (でも明日も行くんですけどね)

来週には並行して進めている、別テーマの史料となりそうな、ヤゴダ・トゥルヘルカの書簡群を読むためにザグレブにお出かけ。

 

 

公文書館が存在するボスニア大統領府に最も近い橋「スケンデリヤ橋」。

 

 

[写真右奥樹に隠れた白い建物がサライェヴォ県庁であり、そのはす向かいに大統領府]

 

この橋の説明板に有名な「伝説」が記載されていた。1893年に建設された、この橋の設計者が、エッフェル塔(1889年完成)で有名なギュスターヴ・エッフェルであるという伝説。エッフェルが残した文書からもボスニア側の公文書からも、この伝説を裏付ける史料は現在のところ見つかっていないので、あくまでも「伝説」。エッフェル塔建設から間もない時期に鉄鋼材を使用した橋の外観が、かかる伝説を生む要素になったのかもしれない。この橋の別名は「エッフェル橋 Ajfelov most」。「スケンデリヤ」は、これ以前に掛かっていた木造橋を建設させたスケンデル・パシャにちなむ。

今年はフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト Philipp Franz von Siebold (1796-1866)没後150周年であり、日本国内各地で展覧会と長崎で国際シンポジウムが計画されている。

http://www.sieboldhuis.org/en/actueel/detail/10th_international_siebold_collection_working_conference

http://www.museum.or.jp/modules/jyunkai/index.php?page=article&storyid=311

 

ボスニアとシーボルトとの間に直接的関係は存在しないが、無関係とも言い切れない。

彼の次男で「小シーボルト」と呼ばれた、ハインリヒ・フォン・シーボルト Heinrich von Siebold (1852-1908)19061219日に台湾銀行副頭取であった下坂藤太郎と幹部行員である「マジマ」氏の随行員としてサライェヴォを訪れているからである。

 

 

欧州にとって未知の領域であった日本から多くの標本をシーボルトが持ち帰った様に、ボスニアもオスマン帝国統治期(1463-1878)は、政治的・治安的理由と共に、交通網が未発達であった結果、西欧にとっては身近な秘境であった。その為19世紀半ば以降各国がボスニアに領事館を設置すると、「プラントハンター」として活動していた外交官もいた。

有名なのは北ドイツ連邦領事(ドイツ帝国成立後はドイツ帝国領事)オットー・ブラウ Otto Blau (1828-1879)であり、彼の旅行記『ボスニア・ヘツルェゴヴィナ旅行 Reisen in Bosnien und die Hertzegowina (1877)には、植物相に関する記述が多数登場する。

https://archive.org/details/reiseninbosnien00blaugoog

 

彼よりマイナーな人物であるが、イギリスの駐モスタル副領事(: 1857-1864)であったジェームス・アーネスト・ナポレオン・ゾーラブ James Ernest Napoleon Zohrab (1830-1891)も「プラントハンター」として活動していた。

 

James E. N. Zohrab: 1859: I am also sorry to say that I have not prosecuted my botanical researches for the past two seasons – my duties having taken of my entire time I now enclose you two packets of seeds.

[DC-56-512, Archive of Kew Garden: Directors correspondence.]

 

彼がモスタルから「プラントハンター」達の総本山であったキュー・ガーデンの親分ウィリアム・ジャクソン・フッカーに宛てた、18591013日付の書簡が存在する。書簡からは、当時ツルナ・ゴーラとの国境紛争に関する列強外交の現地調査・交渉に従事しており、植物採集に専心できなかった彼の様子が覗える。

[彼のモスタル副領事としての活動に関しては、以前ブログで紹介した以下の書籍に詳しい。Edin Radušić, Bosna i Hercegovina u britanskoj politici od 1857. do 1878. godine, Sarajevo: Institut za istoriju u Sarajevu, 2013.]

 

同書簡はキュー・ガーデン公文書館のウェブサイトから申請すればPDF形式で入手する事が可能である。

http://www.calmview.eu/Kew/CalmView/default.aspx

 

: ウィリアム・ジャクソン・フッカー William Jackson Hooker (1785-1865): 1841年からキュー・ガーデン園長。チャールズ・ダーウィンの友人であり、自然選択説を早くから支持したジョセフ・ダルトン・フッカー Joseph Dalton Hookerの父親。

近代ボスニアにおける人間と動物との関係を、19027月創刊の養蜂協会機関誌『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ農家 Bosansko-hercegovački težak』所収記事から見てみる。

 

 

 

ウサギは果樹を齧る為、果樹農家にとっては天敵と見做されていた。

タナシヤ・ジュキチは500本の新樹の内230本を冬に間に齧られてしまった。その為、果樹をウサギから守る方法として、樹冠に届く大きさの乾いた木や茨を数本果樹の周りに挿し、数か所で果樹にワイヤーなどで巻きつける、いわば囲いを作るのが安価で効果的であると推奨している。

[Tanasija Gjukić, Zec kao voćna štetočina, Bosansko-hercegovački težak god. IV br. 10 (1. X. 1905), str. 208-209.]

 

しかし翌年1906年にもウサギによる食害がボスニアで発生し、囲いを行うように強く勧奨している。それと並んで、ウサギによる食害が少ない野生種林檎の栽培実験がモドリチャの農事試験場で試みられることとなった。

[Havelka, Štitite voćke od zeca, Bosansko-hercegovački težak god. V br. 12 (1. XII. 1906), str. 252.]

 

 

果樹栽培に対する、別の天敵が芋虫であった。

芋虫対策として推奨されているのは、巣の除去と焼却。この対策には学童も動員され、州政府から報奨が約束されていた。

[Uništujte voćne štetočine, Bosansko-hercegovački težak god. VI br. 2 (1. II. 1907), str. 37; Havelka, Suzbijanje voćnih štetočina, Bosansko-hercegovački težak god. VII br. 12 (1. XII. 1908), str. 235-236.]

具体的に報償は「お金」であり、1909年にはバニャルーカ県に81クローネ、ビハチ県に100クローネ、モスタル県に78クローネ、サライェヴォ県に171クローネ、トラヴニク県に48クローネ、そしてトゥズラ県に21クローネ、合計499クローネが学童に支払われている。

[Nagrade za sabiranje gusjenica i gusjeničijih jaja, Bosansko-hercegovački težak god. VIII br. 12 (1. XII. 1909), str. 255.]

 

ウサギによる食害には囲いや品種改良という方式で、果樹自体に対策の目が向けられている。しかし、食害の主が昆虫になった途端に、対策は昆虫自体の殲滅という方式が採られている。農家の苦労は認めつつも、小生の関心からすれば「種差別」の一端を垣間見ることが出来る。

 

 

ウサギは害獣であると共に益獣とも見做されていた。

なぜならば、ウサギの飼育は「安価でおいしいお肉を提供してくれるから強く推奨しうる。 Radi dobrog mesa i jeftinoće držanja kunića, može se najbolje preporučiti.」害獣ならば危険となる繁殖力の高さも、好きな時に家でお肉がたべられる利点と見做される。

更に鶏肉は一人用昼食にすら不十分であるが、ウサギ肉は数日家族の食事になるとして、その経済性が強調される。

1910年の記事の表題が分かりやすいが、果樹に食害を齎す害獣たる野ウサギ(zec)が飼い慣らされた存在(pitomni zečevi)となる時、食肉を提供する益獣としてのウサギ(kunić)となる。

[J., Nešto o uzgoju kunića (pitomih zečeva), Bosansko-hercegovački težak god. IX br. 10 (1. X. 1910), str. 200-201; M. Milinović, Kunić, Bosansko-hercegovački težak god. XII br. 3 (1. III. 1913), str. 49-52.]

 

1911年、野ウサギによる食害から果樹を守る為、改めて上述した囲い対策が州政府から命令されている。

[Zaštita voćaka od zeca, Bosansko-hercegovački težak god. X br. 3 (1. III. 1911), str. 59.]

 

この世にある全ての存在が、この世の主人である人間に奉仕する為に存在すると見做した古い種差別も、一定の生物のみ保護する近年の新しい種差別も、その根底には人間中心主義が潜んでいる。生物は人間にとっての有利不利によって分別・対処される。

[Usp. Joan Dunayer, Specizam: diskriminacija na osnovi vrste, Zagreb: Institut za etnologiju i folkloristiku, 2009.] (原著はSpeciesism, Ryce publishing, 2004.)