『真説「徐福伝説」』 | Hiroshiのブログ

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今夜は2週間ぶりのSalson。楽しみ爆笑ウインク

 

 

『真説「徐福伝説」』

羽田武栄、広岡純著、三五館、2000年初版。

 

表題は「新説」でなく、「真説」になっている。ハードサイエンス的には「真説」はおかしいと感じる。常に「新説」は新たな事実や発見で書き換えられるものだから。ま、あまり煩いことを言わなくてもいいかな?爆笑

 

個人的にはアカデミックにというよりは、気楽に読める「小説」という姿勢で。そもそも史記などの文献上の物語。物証はこれまで聞いたことがない。ならば「お話」として楽しむのがいい。文字通り「徐福伝説」。

 


「まえがき」で著者は『歴史学者や考古学者が徐福を研究して。学術論文を発表し社会的な認知を得たこともない… 司馬遷という人物を信用していないのだろうか』p2 という。

 

それは、その通りだが、実証がない以上。ハードサイエンスの対象にならないのは自明では? 趣味や教養でやるのは全然構わないけど(笑)

 

始皇帝は中国全土に郡県制を敷いたが、封建制との組み合わせの方が、当時としては良かったのではと感じる。

 

徐福が生まれた斉は当時、中国の学問と文化の中心。それは斉が経済大国だったから。p32 特に宣王(BC319~301)の時の稷門の付近に文化地区を設定し、「稷下の学士」という言葉の由来になっている。p72

 

始皇帝は統一後、5回にわたり全国を視察したが、1回目を除き、4回は全て沿海部まで行っている。特に最後の5回目は海路で山東半島を回っている。p39 この時、琅邪を起点にしている。こうしたことから、彼は沿海部に注目していたと著者は言う。p42

図3

 

このうち琅邪はもともと越の勾践(BC496~465)が会稽から都をこの地に移し琅邪台を築いたのが始まり。p46

 

<データーベースとして>

東夷というのは中原から見て沿岸部に住む人々を指す。日本はその一部。p51