<戒賢、恵果、天童如浄に共通するもの>
『新西遊記』を読みながらこれら三者に共通するものを見出した。それは玄奘、空海、道元にまつわる疑問を全て説明できるものだ。
玄奘の師、シーラバドラ(戒賢)。空海の師、恵果。そして道元の師、天童如浄。時代は違うが全て仏教の衰退を感じた者たち。
玄奘の時代、既にインドでは仏教の衰退が進みヒンズー教が拡がっていた。恵果の場合は道教の興隆、天童如浄は国そのものの衰退、そして遠くにきく北方異民族の足音。
彼らは仏教の未来を優秀な弟子にかけた。
戒賢は果てしなく遠い東の地、中国。恵果と天童如浄は海の向こうにあるという日本に、それ故、沢山の経典と便宜を彼ら若い弟子に惜しみなく与え、仏教の未来を未知の新天地にかけたのではないか?という事。
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<中国建替え事情>
昨日の続きだが、先日「男子汉」さんのところで質問したら。知る得る限りでということで、詳しい返事をもらった。
https://ameblo.jp/nanzuhan/entry-12709587099.html
自分なりにまとめてみると:
1)まだ法的に決まっていない。
2)デベロッパー主導(地方政府)の建替えの場合は、建物に対する所有権として「立ち退き料」が持ち主に支払われる場合と、新築への入居権が与えられる。
普通の住居の所有権は70年限定だが、その間1度は、少なくとも修復は必要なはず。まずはお手並み拝見とおいうところか。
『中世ヨーロッパ』3
第3章は「農民は風呂に入ったこともなく、腐った肉を食べていた」という誤解について。
そもそもそのような誤解をした事がないので、ちょっと意外な感じはあるが、それでも近代に至るまで都市には下水道がなかったことは事実だし、清潔でなかったのは事実。またマラリアが南仏で蔓延していたものは事実だし、同じベッドに家族が固まって寝ていたことも、これについても否定するのだろうか? p095
ミシュレのいう「中世には入浴の習慣がなかった」という言説に対し批判しているが、p097、p101 当時は一般庶民の家に浴室やトイレがあるわけではなく、入浴は頻繁ではなかったし、汚物は下水道がなかったのでオマルから外の通りに投げ捨てられたことを記録している同時代の証言もある。
確かにミシュレはしばしばきちんとした引用なく、そのような事をいう事があったことはいろいろな人が批判している。ルゴフは彼女は「晩年、失望と嫌悪、幻滅のさなかに書かれたと」している。 尤もそういうルゴフも私からしてみるとかなり恣意的な感じがしたが? 大御所に対し恐れ多いことだが(汗)
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「腐った肉」に関しては、最初から論外。冷蔵保存が不可能な時代、そもそも肉を腐るまでとっておくなどのことは考えられない。それに塩や酸で保存することは古代から知られていた。だからザルツブルグは古代より栄えていたわけ。
まして言わんや、腐った肉ゆえに香辛料を使うなど香辛料が極めて高価な事を考えれば誰でもオカシイと感じるはず。著者はここにあげた論証をあげて「腐った肉と香料」の言説の不合理性を指摘するが、p105 、、、これって当たり前のことでは?
ところで3章の参考文献に『農民のヨーロッパ』や『中世ヨーロッパの農村世界』を挙げているが、p113 いずれも読んだ記憶がある。その意味では、私はこうした誤った言説を批判する本から入ったので、この著者の批判には「当然のことだろう?」という意識しか起こらないのかもしれない。
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