悪習と悪事 & 『古代中国』2 | Hiroshiのブログ

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今後不定期投稿となります

<数値目標>
https://www.duolingo.com/learn
エメラルドリーグ +10XP,21880 X,四分钟。

https://www.youtube.com/watch?v=EtYpcNnapXU&list=PLrWxcegPNiyj-M05glrorpUrXekNDKejm&index=7
KHSK2~3 #4~#7 背了一个小时七分钟单词。一共一个小时十一分钟。

今日はどうも勉強する気力がない。早々に諦めて読書三昧のつもりだったが、やはりこんな日は読書も進まない。頭からフードを被り、電気毛布をまとって半分屋外でダラダラと読書とネット検索をやる。「ま、こんな日もあるさ」と諦めよう。

运动;爬上散步 2.3km, 3016步,10楼。
運動も形だけ、こんな日は何も進まない(涙)



<悪習>
コロナ下、宴会や集会が自粛され営業関連の接待が中止されているとのこと。当然だと思うし、これを契機に全てなくすべきだと強く思う。そもそも、こうした営業に名を借りた「会社の金で飲み食いする」ということ自体、以前から道義的問題だと感じていたから尚更だ。

大学の世界しか知らないので、そうした機会は基本少なかったが、それでも全くないわけではなく、一時期そうした接待を普通に受けている組織に属したことがあり、非常に不愉快に感じていた。表向きは「野球大会」だとか、「忘年会」だとかに託けた親睦会だが、おそらく業者側からの何らかの補填?があったはず。

そうした気持ちを向こうもそのうち察したのか、やがて双方から呼ばれなくなったが、清清したものだ。その後、こうした親睦会が問題になったという噂は聞かないが、今は流石に変わっているだろうと思うが、果たしてどうだろう? 
https://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/970/trackback

こうした問題の難しいところは、利益誘導と習慣・慣習の間の灰色部分が大きい点にある。

それとは別に思うのは、こうした「対面営業」が経済活動の潤滑油だと考える人間がかなりいることだ。これが日本の生産性を他の先進国に比べて著しく低くしている原因でもある。

先日も家のリホームをした時、最初から企画プランをメールで送って貰い、必要ならばスカイプやFaceTimeで済まそうとしたが、結局昔ながらの対面営業=ハンコ事務を経験してそれをつくづく感じた。
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<悪事>

秘書が、秘書が、秘書が、秘書が…

わ、私は知りませんでした。不正には関わっていない』

責任がないとは言わせないゼ! 責任をとれ!
https://news.yahoo.co.jp/articles/fa3f69384f0bcc81ef3ec1ac96041a72713bd79e




『古代中国』2
兵馬俑について地下壕は4つあり、そのうちの1つは未完成状態だったとか。初めて知る。また屋根は木造だったが、これはその他の墳墓、例えば湖南省の長沙王の墳墓でも同じ。p31、p39 

木造ということは、長期の補修(いずれ腐食する)についてどのように考えていたのだろうか? そうしたことについての記載は見たことがない。

張騫の帰国の時は抑留されていた状態から部下たちと脱出したと書かれていたが、確か妻と一人の匈奴出身の僕(甘父)だけだったと記憶しているが、どうなのだろう? p36
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紙幣といえば元朝が最初に頭に浮かぶが、実際には経済が繁栄した北宋時代から鋳造の間に合わない銅銭に代わり会子や関子が発行されたが、予想に違わずインフレを引き起こした。当時は兌換紙幣。これが不換紙幣になるのは=銅銭使用を禁止した元朝から。p45

ここでも石炭が広く使われるようになるのは宋代以後とされる。p48 しかし、唐代から使われていたことは。円仁の記録からも分かる。当時まだ日本では石炭は使われていなかった。
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考えるに石炭の産地は北方なので最初、唐代に始まり、やがて海運で南に運ばれるようになり、全国的に宋代に普及したということではないか?

こうした細かな点で少し不満のある本ではあるが、簡潔に古代中国の様々な事柄に分けて紹介している点は頭を整理するには便利。また図説的に描かれているので。本文にない情報も沢山得られる(尤も、その図の正確さは不明だが)。

例えば先の墳墓の構造でも、屋根が木造でその上に土が盛られている構造だということが挿絵から判る。それまでは石造で屋根が覆われていると思っていたので「長期の補修」などに疑問を持つことはなかった。因みに古代中国とされているが、実際には中世、宋代までの記載がある。