red8のブログ -2ページ目

red8のブログ

長男Kの文章力向上の為、同級生に説明する記事を書くという設定でupします。現在知っている知識・図書室で調べられる情報を元にした内容なので間違いや足りない所もあるかと思いますが「詳しく正しく」ではなく「文章力向上」が目的なので、そこはご容赦くださいm(__)m

毛利両川の名将 小早川隆景

 毛利家きっての名将、小早川隆景は1533年に中国地方の大名の毛利元就の三男として生まれた。隆景は、1544年に竹原小早川家に養子に出され、1550年には小早川家の本家沼田小早川家の当主が父元就の陰謀で追放され、その跡を隆景が継いだ。

 1555年、その当時中国の大大名だった大内義隆を自害させた陶晴賢との厳島の戦いでは、毛利水軍を率いて陶晴賢の水軍を撃破するなどして活躍。その後も、山陰地方の大名尼子氏と戦ったり、北九州の大名大友宗麟と戦うなどして父元就を支え続けた。

 1571年に元就がなくなると、隆景は跡を継いだ甥の輝元を兄の吉川元春と補佐するようになる。そして、織田信長の中国侵略がはじまると、隆景は山陽道で信長の武将羽柴(のちの豊臣)秀吉と激戦を繰り広げるのだった。だが、1582年の本能寺の変を知った秀吉は、毛利氏に和平を持ちかける。隆景は、輝元や秀吉を嫌っていた元春を家臣の安国寺恵瓊と説得し、和平を結んだ。

 隆景は秀吉に気にいられ、隆景も毛利家を秀吉の天下統一に協力させるようにした。1585年に四国の長宗我部氏征伐で功績を挙げた時に、伊予(愛媛県)を与えられるが、毛利家家臣の立場は動かさなかった。翌年、兄元春がなくなると隆景は1人で毛利家を支える事になる。九州征伐が終わった後には、伊予から筑前(福岡県)の城に入った。朝鮮出兵では、碧蹄館の戦いで明軍を破る戦功を挙げた。このように、隆景は豊臣家の天下統一に貢献したため、「主君よりも優れた武将3」の1人に挙げられている(他の2人は龍造寺家の鍋島直茂と上杉家の直江兼続)。だが、隆景は男子運に恵まれなかったため、秀吉の一族秀秋を婿養子にもらう。そして、秀秋に跡を継がせ、隆景自身は隠居した。そして、1597年に65歳で亡くなった。


隆景死後の影響

隆景の死後、豊臣政権は徳川家康に崩され、1615年、隆景死後わずか18年で豊臣家は滅亡する。隆景は豊臣政権を支える支柱のような働きをしていたのではないか。


戦国時代のある「法則」

 人があらゆるところで命を落とす戦国時代。だが、武将の死には、ある「法則」があるという。それは、「兄弟の死の順番では、弟が先に死ぬ法則」だ。実際、有名な武将もその法則に当てはまっている。

・武田信玄(兄)と信繁(弟)→川中島の戦いで信繁は兄を守って戦死

・織田信長(兄)と信勝(弟)→信勝は兄を殺そうとしたが逆に殺害される

・豊臣秀吉(兄)と秀長(弟)→秀長は兄の天下統一直後に病死

・真田信之(兄)と幸村()→幸村は徳川一門の兄に対して大坂夏の陣で壮絶に戦死

・伊達政宗()と小次郎()→信勝と同じように無理な追い越しをしようとした結果兄に殺害される

だが、例外もいる。石田三成兄弟と毛利隆元3兄弟だ。

・石田正澄()と三成()→兄は関ヶ原敗戦の直後に佐和山城で自害。弟はその直後に処刑

・毛利隆元()・元春(2)・隆景(3)→この兄弟は珍しく兄弟順番に死んでいる

いずれにしろ、こんな法則は戦国時代だからこそできたもので、これからも二度とできてほしくない。

怨霊となった悲劇の天皇  崇徳天皇

 鳥羽天皇の第1皇子として生まれた崇徳天皇は、曾祖父の白河法皇の強い希望でわずか5歳で皇太子になり、同じ年に鳥羽天皇から天皇の位を譲位され、第75代天皇となった。

 1129年、崇徳11歳の時に当時関白であった藤原忠通の娘を后とする。だが、その后との間には子は儲けられず、側室との間に子を儲けてしまう。これで忠通は天皇の外祖父になる事ができなくなってしまい、崇徳を恨む事になってしまう。その年に白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇が院政を引き継ぐことになる。鳥羽上皇は崇徳を嫌っており、その時に鳥羽上皇の寵愛を受けていた后の美福門院の間に生まれた体仁親王(のちの近衛天皇)を皇位につけたかった。実は、崇徳は白河法皇と鳥羽の后との間に孕んだ不義の子。鳥羽にしてみれば、祖父が自分の后との間に孕ませた白河法皇の子であった。鳥羽はその事を知っていた。

1141年、崇徳は突然鳥羽から譲位を迫られる。崇徳はこの圧力に屈し、体仁に譲位した。崇徳は上皇にはなったものの、体仁は自分の弟。上皇がわが子を補佐する院政を敷くのは鳥羽であり、崇徳が院政を敷く事はできなかった。

1155年に近衛天皇となっていた体仁が崩御し、崇徳はわが子の重仁を天皇の座につけようとするが、美福門院が推す雅仁親王(のちの後白河天皇)が即位。さらに雅仁の子である守仁親王(のちの二条天皇)が皇太子になったため、以後、崇徳が院政を敷く事は無くなった。

その後の1556年に鳥羽が亡くなると忠通と対立していた弟の頼長と手を組み保元の乱を起こす。だが、乱に敗れた崇徳は讃岐(今の香川県)に流され、そして二度と京の土を踏むことなくその地で世を恨みながら一生を終えた。46年の父に振り回された悲劇の生涯であった。


その後の影響

 保元の乱の後、友軍であった平清盛と源義朝が対立、平治の乱を起こす。結果は平氏軍が勝利。清盛は異例の出世街道を昇っていく。崇徳が保元の乱を起こした事は、間接的に清盛が勢いづく原因となったのではないだろうか。


コラム  恐怖!崇徳上皇の呪い

 保元の乱に敗れ、讃岐に流された崇徳は仏教に傾倒。自分が極楽浄土に行けるように長い歳月をかけて写経をした。崇徳はその写経を朝廷に差しだすが、朝廷の人々はこのお経に呪いがかけられているのではないかと疑い、これを崇徳に返してしまう。崇徳はあくまで流罪の身であり、そんな人が写経をして、そのお経を朝廷に送ったのだから疑いを持つのも無理はない。だが、これにブチ切れた崇徳は、自分の舌を食いちぎってその血でその写経にこう書いた。

「我、日本国の大悪魔にならん」、「この経文を魔道に回向する」

それ以来、崇徳は髪も伸ばし爪も伸ばして、「生きながら天狗の姿」となった崇徳はその地で一生を終えた。崇徳の死骸は白峰山の山頂で荼毘に付された。その日は強い北風が吹いていたにもかかわらず、その煙は京の方角になびいていったという。

以後、朝廷の付近では異変が生じる。まずは皇位についていた二条天皇が急死。さらには鹿ケ谷の陰謀、延暦寺の衆徒の強訴が続き、朝廷に深いかかわりを持つ建物が次々に焼失。そして、崇徳を讃岐に流した張本人の後白河もとうとう病に倒れる。それらの禍はすべて崇徳の仕業と思われ、後白河は白峰山の山頂に広大な寺院を建立する。だが、こんな事で日本国の大悪魔が許してくれるはずも無く、その翌年に後白河は死去。以来、崇徳は天皇家を呪う最強の怨霊として恐れられるようになった。

その恐れは、崇徳が生きた源平の時代よりも遠く離れた幕末の時代でも、即位した明治天皇がわざわざ崇徳の霊に陳謝するために白峰山の山頂に勅使を送って来るほどだった。

浅井の若君  長政

1545年、長政は北近江の大名 浅井久政の長男として生まれた。元服時の名は賢政といった。これは、父久政が南近江の大名 六角義賢に従っている証だった。賢政はこんな久政の態度に腹を立て、最初の妻であった六角氏の娘を離婚。久政を隠居させた。これに怒った義賢は、北近江に大軍を向かわせた。すると長政は、この大軍を野良田の戦いで見事に撃破。名も長政に変えた。浅井家の当主 浅井長政の誕生となった。長政は、この戦いののちに織田信長と同盟。信長の妹で、絶世の美女と謳われていたお市の方を迎え入れた。二人は仲睦まじい夫婦で、二男三女を儲けた。ところが、幸せに包まれていた長政に災難が訪れる。信長が、昔からの仲であった朝倉家を攻撃したのだ。浅井家は、力よりも義を重んじ、朝倉を助けることにした。長政は、信長軍の背後を攻撃するが、運悪く逃げられてしまう。これが俗に言う「金ヶ﨑の退き口」だ。そして、態勢を整えた織田・徳川軍と姉川の地で対決する。結果は、信長らの勝利に終わり、長政は居城 小谷城に戻った。その後、信長に何度も反撃を試みるが全て失敗。ついに15738月、信長に攻められ、小谷城で父久政とともに自害。28歳の若さだった。浅井家は滅亡したが、お市と共に儲けた3人の娘(長男は自害、次男は出家した。)は生き延び、浅井家の血筋は残るのだった。


浅井家滅亡の影響

浅井家滅亡後の信長は勢いづき、1575年に最強と謳われていた武田軍を設楽原で撃破。本能寺の変の前には自ら毛利家を攻めていた羽柴秀吉の援軍として中国地方へ行こうとした。信長はそれほどまでに勢いがついていたのだ。浅井家を滅ぼした事は、信長の勢いが増す為のばねとなったのではないだろうか。


浅井三姉妹とお市の方のその後

 長政が自害する直前、長政はお市と三姉妹を信長の陣に逃がしていた。この4人は、この後は波乱の人生を歩むことになる。3姉妹とは、茶々、初、江の事だ。


お市…お市は、信長の妹として生まれた。長政の死後は織田家随一の猛将で、「かかれ柴田」の異名をとった柴田勝家の妻となる。(秀吉は、お市に惚れていたという。お市の死後、秀吉はお市に一番似ていた茶々を妻としている。)だが、信長の死後に天下取りの第一人者となった秀吉の手により勝家の居城 北庄城は落城。勝家とお市は自害した。


茶々…茶々は、浅井家の長女として生まれる。賤ヶ岳の戦い後に秀吉の妻となり、秀頼を産んだ。秀吉の死後、幕府を開いた徳川家康により豊臣家の居城で茶々のいた大坂城は落城。茶々は自害した。


初…初は、浅井家の次女として生まれた。初は名門の京極家に嫁ぎ、当主の京極高次を支えた。大坂の陣が勃発した時、初は徳川家に嫁いでいた妹 江と豊臣家に嫁いでいた姉 茶々の仲介に入るが、奔走虚しく茶々は大坂城で自害した。その後初は、夫と一緒に暮らしたという。


江…江は、浅井家の三女として生まれた。江は結婚を3回したが、始めの2回は夫が死んでしまい、3回目でようやく徳川秀忠と結婚した。幕府が開いた後、江は第2代征夷大将軍となった夫を支えた。幕府の基本を固めた秀忠も妻には頭が上がらなかったという。

武市瑞山 土佐勤王党を開く

土佐藩の郷士の家に生まれた瑞山は、通称を半平太という。幼い頃から学問などに熱心に打ち込み、剣術は、のちに道場を開いたほどだった。その2年後、剣術修行のために江戸に出た。そこで、鏡心明智流を学んだ。だが、1年後には、祖母の病気を理由に土佐に帰る事になる。1860年には、九州や四国を見て回った。その後、剣術修行の名目でまた江戸にでる。瑞山は、この旅の中で、各地の志士と口論し、尊王攘夷論に傾いて行った。この後、瑞山は江戸で土佐勤王党を結成。200名近くのメンバーになった。その中には、坂本龍馬や中岡慎太郎、「人斬り以蔵」の異名を持つ岡田以蔵の姿もあった。

瑞山は土佐藩全体の意見を尊王攘夷に向けようとしたが、その当時の土佐藩の中心にいたのは、公武合体派の吉田東洋だった。そこで瑞山は、発言力を大きくするために、東洋を暗殺する事に成功する。ところが、818日の政変で幕府が力を取り戻すと、土佐でも土佐勤王党の弾圧を始まる。そして、瑞山も切腹を命じられるのであった。


私の瑞山の印象

 私は、瑞山が過激な土佐勤王党を頭領としてまとめたことや、切腹の時には誰も成し遂げた事のない「三文字の切腹」を遂げた事から、瑞山は結構度胸のある人だと私は思う。


土佐勤王党に参加した人、その支持をした人

 土佐勤王党に参加した人はいろいろいるが、私は4人紹介する。その4人とは、坂本龍馬、中岡慎太郎、岡田以蔵、板垣退助だ。

 坂本龍馬…龍馬は1861年に参加した。しばらくは瑞山と行動を共にしていたが、その後に脱藩。この行動は党を裏切るものだった。だが、その行動には瑞山は、「あいつは土佐なんかに収まらない奴だ。」と許している。

 中岡慎太郎…慎太郎は、瑞山が土佐勤王党を結成するとすぐに参加した。その翌年には江戸や京都に出て他の藩士と交流。尊王攘夷活動を行っていた。だが、慎太郎が土佐に戻ったら勤王党の弾圧が始まっていた。それで慎太郎は脱藩。長州の尊王攘夷派を頼って行く事になる。

 岡田以蔵…以蔵は、瑞山のもとで剣の使い手として成長する。その瑞山が勤王党を結成すると参加。暗殺者として名を上げる。その働きは、「幕末四大人斬り」と呼ばれるほどだ。さらに、1862~63年にかけて発生した暗殺事件のほとんどは以蔵が関係していたとも言われた。だが、一時期は開国派の幕臣 勝海舟を同志 坂本龍馬の紹介で護衛していた事もある。この時には、海舟を襲った刺客を見事に斬り伏せている。だが、土佐勤王党の弾圧で捕まった以蔵は、斬首された。享年28。

 板垣退助…退助は、土佐藩の藩主 山内豊信に信頼され、1864年には大目付という重要な役職に就いた。ところが、退助は尊王攘夷を唱える土佐勤王党の思想に共感するようになり、直接、勤王党に入る事は無かったものの、その思想を取り締まる大目付という役職でありながら、その思想を支持した。その事から、大目付の役職を外されてしまった。

上杉景勝  上杉家を継ぐ

上杉景勝は、1555年に生まれた。景勝は謙信の甥にあたり、10歳で子供のいなかった謙信の養子となっている。だが、謙信はもう一人養子をとっていた。北条家からの人質でありながら、謙信の養子となっていた景虎(氏秀)だ。謙信は、この景虎を可愛がっていたため自分が名乗っていた「景虎」の名前を名乗らせている。上杉家の後継者は景虎か、景勝か。だが、後継者を決めないまま謙信は死んでしまう。このため、上杉家は景虎派と景勝派に分かれてしまう。1年の戦いの末、ようやく景勝派が勝った。景虎は自害し、お家騒動は鎮まった。

 上杉家を継いだ景勝は、謙信のように上杉家を率いなければいけない、と思ったのだろうか。部下の前ではほとんど笑わなかったという。また、戦いでは鎧を身につけず青竹一本で闘った。豊臣家に仕えてからも真面目な姿勢は変わらず、その姿勢が秀吉は気に入り、五大老の一人に任命された。44歳で会津に移されたのも、「家康が暴走した時、景勝が止めてくれるだろう。」という秀吉の信用があったからだ。その期待に応え、関ヶ原では家康に徹底対抗。だが、協力関係にあった石田三成が負けてしまい、米沢30万石に領地を削られてしまう。だが、景勝は後悔していなかった。その後、家来の直江兼続と一緒に政治に力を尽くした景勝は、69歳で人生の幕を閉じた。                 景勝の義理がたい精神が子孫に移ったのか、上杉家には名藩主が出ている。

私から見た景勝

景勝は、みんなの先頭に立って戦う、理想の殿様だ。なぜなら、景勝は、御館の乱では元々立場的には謙信にかわいがられていた景虎には及ばなかったのに、そこを逆転した。また、関ヶ原の戦いで領地を削られても後悔せずに与えられた領地の政治に直江兼続とともに取り組んだからだ。

コラム  御館の乱に関わった家

 上杉家のお家騒動の御館の乱、この騒動に関わった家は3つある。北条氏と武田氏と織田氏だ。北条氏は景勝のライバル、景虎の実家だ。だが、景虎派が負けたため、北条氏の国力は弱まっていく。武田氏は、景勝派に味方し、勝ったがその時同盟関係だった北条市に同盟を断ち切られ、その後は滅亡への道をたどっていく事となる。織田氏は、勢力が弱くなった上杉家につけ込もうとするが、本能寺の変が起き、上杉家につけ込めずに衰退の道をたどる。