毛利両川の名将 小早川隆景
毛利家きっての名将、小早川隆景は1533年に中国地方の大名の毛利元就の三男として生まれた。隆景は、1544年に竹原小早川家に養子に出され、1550年には小早川家の本家沼田小早川家の当主が父元就の陰謀で追放され、その跡を隆景が継いだ。
1555年、その当時中国の大大名だった大内義隆を自害させた陶晴賢との厳島の戦いでは、毛利水軍を率いて陶晴賢の水軍を撃破するなどして活躍。その後も、山陰地方の大名尼子氏と戦ったり、北九州の大名大友宗麟と戦うなどして父元就を支え続けた。
1571年に元就がなくなると、隆景は跡を継いだ甥の輝元を兄の吉川元春と補佐するようになる。そして、織田信長の中国侵略がはじまると、隆景は山陽道で信長の武将羽柴(のちの豊臣)秀吉と激戦を繰り広げるのだった。だが、1582年の本能寺の変を知った秀吉は、毛利氏に和平を持ちかける。隆景は、輝元や秀吉を嫌っていた元春を家臣の安国寺恵瓊と説得し、和平を結んだ。
隆景は秀吉に気にいられ、隆景も毛利家を秀吉の天下統一に協力させるようにした。1585年に四国の長宗我部氏征伐で功績を挙げた時に、伊予(愛媛県)を与えられるが、毛利家家臣の立場は動かさなかった。翌年、兄元春がなくなると隆景は1人で毛利家を支える事になる。九州征伐が終わった後には、伊予から筑前(福岡県)の城に入った。朝鮮出兵では、碧蹄館の戦いで明軍を破る戦功を挙げた。このように、隆景は豊臣家の天下統一に貢献したため、「主君よりも優れた武将3」の1人に挙げられている(他の2人は龍造寺家の鍋島直茂と上杉家の直江兼続)。だが、隆景は男子運に恵まれなかったため、秀吉の一族秀秋を婿養子にもらう。そして、秀秋に跡を継がせ、隆景自身は隠居した。そして、1597年に65歳で亡くなった。
隆景死後の影響
隆景の死後、豊臣政権は徳川家康に崩され、1615年、隆景死後わずか18年で豊臣家は滅亡する。隆景は豊臣政権を支える支柱のような働きをしていたのではないか。
戦国時代のある「法則」
人があらゆるところで命を落とす戦国時代。だが、武将の死には、ある「法則」があるという。それは、「兄弟の死の順番では、弟が先に死ぬ法則」だ。実際、有名な武将もその法則に当てはまっている。
・武田信玄(兄)と信繁(弟)→川中島の戦いで信繁は兄を守って戦死
・織田信長(兄)と信勝(弟)→信勝は兄を殺そうとしたが逆に殺害される
・豊臣秀吉(兄)と秀長(弟)→秀長は兄の天下統一直後に病死
・真田信之(兄)と幸村(弟)→幸村は徳川一門の兄に対して大坂夏の陣で壮絶に戦死
・伊達政宗(兄)と小次郎(弟)→信勝と同じように無理な追い越しをしようとした結果兄に殺害される
だが、例外もいる。石田三成兄弟と毛利隆元3兄弟だ。
・石田正澄(兄)と三成(弟)→兄は関ヶ原敗戦の直後に佐和山城で自害。弟はその直後に処刑
・毛利隆元(1)・元春(2)・隆景(3)→この兄弟は珍しく兄弟順番に死んでいる
いずれにしろ、こんな法則は戦国時代だからこそできたもので、これからも二度とできてほしくない。