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長男Kの文章力向上の為、同級生に説明する記事を書くという設定でupします。現在知っている知識・図書室で調べられる情報を元にした内容なので間違いや足りない所もあるかと思いますが「詳しく正しく」ではなく「文章力向上」が目的なので、そこはご容赦くださいm(__)m

武田家と諏訪家の絆  武田勝頼

 武田信玄の四男として、1546年に勝頼は生を受けた。勝頼の母は、信玄が滅ぼした諏訪家の娘、諏訪御料人。諏訪の人々は、侵略者であった信玄を嫌っていたが、元領主の娘だった諏訪御料人が勝頼を産んだ事で、信玄と諏訪の人々との関係が良くなった。勝頼は、始めは母の実家である諏訪家を継いだ。だが、信玄の長男 義信は信玄と対立したため自殺、次男は失明したため出家、三男は幼くして病死したため、勝頼が武田家を継ぐ事となった。

 勝頼28歳の時、父 信玄が病死したため勝頼が武田家を継いだ。だが、勝頼は政治、軍事などについて部下達と対立していた。部下の多くは亡き信玄を尊敬し続け、信玄と勝頼をいつも比べていたからである。そこで勝頼は、自分の力を信じさせようと信長や家康にどんどん戦いをしかけていった。そして、信玄でさえも落とせなかった高天神城を落とした。だが、無理な戦いをしかけていったせいで、1575年に長篠の戦で大敗してしまう。勝頼は、この後衰退していく勢いを止める事ができず、1582年、天目山の戦いで自害。36歳の若さだった。

長篠の戦いの真実

 勝頼が大敗した長篠の戦い、武田軍が敗北した原因はなんだろうか、信長の三段構え?いいや、違う。三段構えは物理的に無理だ。では、なんだろうか。武田の陣営には、馬場信房や高坂弾正、山県昌景や内藤昌豊など、武田四天王と呼ばれた者や歴戦の猛者など、そうそうたる面々が揃っていたはず…。実は、この猛者達が敗北の原因だと言われているのだ。前に述べたように、信玄を尊敬していたものが多かった。信玄にとって、信長と家康は最も憎き相手。だから、猛者たちは信玄の仇を討とうとしていたのだ。だから、信長の馬防柵相手に突撃して、討ち死にしていったのだ。ちなみに、長篠の戦で死んだ勝頼の部下の数は、わずか1人だ。

武田家滅亡の影響

 武田家が滅亡した事で、家康は元武田家の領国を征服していった。そして、元武田家の家臣を登用できるようにしてやった。これが、家康の名声を高めて行った。この後、信長の死後、後継者の候補として、推されたのが家康だった。これは、武田家臣の登用の影響が多いと思う。その後、家康は幕府を開いた。武田家滅亡は、家康が名声を高めるきっかけとなったのではないか。

名門の血筋を受け継ぐ大老 井伊直弼

 井伊直弼は、1815年に彦根藩主 井伊直中の14男として生まれた。側室の子だった為に、若い頃は苦しい生活を強いられていた。ある大名の養子候補に選ばれた時もあったが、弟が選ばれた事があった。そんな直弼に転機が訪れたのは、1846年の時だ。藩主となっていた兄 直亮に後継ぎがいなくなった為、ただ一人残っていた直弼が養子になった。その4年後、その直亮が死んでしまった為、その跡を継ぎ第16代彦根藩主になった。

 1858年、幕府は第13代将軍 家定の後継ぎを巡る一橋派と南紀派の争いや、貿易を始めるための条約など、大きな問題に揺れていた。そんな中、直弼は大老となる。直弼は、将軍家により近い血筋を持っている徳川慶福(のちの家茂)を将軍として、後継ぎ問題を解決すると、アメリカと日米修好通商条約を結ぶ。この直弼の行動は、大きな非難を浴びた。なぜなら、直弼はこれらの問題を1人で強引に決めたからだ。とくに、アメリカとの条約の件は、条約を結ぶために必要な勅許を得なかったため、尊王攘夷派などから強い反発を受けた。直弼は、この尊王攘夷派に対し、謹慎や隠居、さらには処刑を行う。そして1人で強引な政治を行った。これが「安政の大獄」だ。この結果、直弼は桜田門外の変で殺されてしまう。享年45。

井伊家の先祖 井伊直政について

 井伊家は、江戸幕府初代将軍 家康に重く用いられていた「赤鬼」こと井伊直政が祖先だ。この直政、家康の寝床に忍び込んだ武田軍の忍者を討ち取っている。さらに、全体を赤い武具で統一した部隊「赤備え」を率いて、恐れられていた。直政には、次のような伝説がある。ある日、直政が狩りをしていると、1匹の猫が手招きをしている。なんだろうと思ってついて行ってみると、そこに雨が降り出した。この猫のおかげで直政は雨に濡れずにすんだ。この猫が、のちに「招き猫」のモデルとなった、と伝えられている。実は、大人気のゆるキャラ「ひこにゃん」が赤い兜をかぶっているわけは、直政の赤備えがモデルと言われている。

桜田門外の変後の影響

 直弼の死後、幕府は力を失っていく。大老が暗殺されたとなると、「幕府なんて大した事ないのではないか?」という疑問が、志士達の間に上がって行った。そして時代は、尊王攘夷へと傾いていく。そして、幕府は1867年に、滅亡してしまう。直弼は、ただでさえ勢いを失っていた幕府を救おうとしていたのではないだろうか。

木曽義仲  平家討伐に立ちあがる

1180年、雪深き木曾の地から、一人の武者が立ちあがった。その名は源義仲、通称 木曽義仲である。義仲は、頼朝らの父である源義朝の弟にあたる、源義賢を父に持つ。だが、その義賢は義朝の長男、義平に殺されてしまう。義仲も、義平に命を狙われるが、その義平に仕えていた武士、畠山重能(はたけやましげよし)に命を助けられる。その後、義賢に仕えていた武士、斎藤実盛によって、信濃が木曾谷の豪族、中原兼遠に預けられた。その後、その地で元服した義仲は、以仁王の令旨を受け、兵を上げた。頼朝から、1か月遅れての出兵だった。1183年、義仲らの軍は、平維盛(清盛の孫)を総大将とした10万の軍と越中(富山県)の倶利伽羅峠で激突。この戦いで義仲は、角に松明を付けた数百頭の牛を敵陣に向けてはなった、という逸話が残っている。敵軍10万のうち、京まで帰れた者は、2万しかいなかったという。1184年、後白河法皇の命を受けた義経らの軍と宇治川にて対戦するが敗北。義仲は、義経軍の誰かが放った流れ矢によって討ち死にした。享年30。旭将軍と言われるほどの勢いだった義仲は、このようにあっけ無く最期を遂げた。出兵から、わずか4年だった。


義仲に最後までつきそった女武士 巴御前

義仲の出兵時から付き添っていた武士の中に、美人な女の武士がいた。この女武士は、巴という。義仲の幼少時から、もう一人の武士、今井兼平と義仲と一緒に育ち、武芸を磨いてきた。ある戦いで巴は、1騎で7人の兵を討ち取ったと言われる。義仲が討ち死にした戦い、宇治川の戦いにも巴は従軍していた。味方が次々に死んでいく中で、巴は奮戦していた。そして、義仲と兼平と巴だけになった時、義仲は巴を逃がそうとする。すると、巴は、「では、せめて義仲様に武功を御覧に入れましょう。」と、源氏の武将一人に飛び掛かっていく。すると、素手でその武将の首をへし折った。(実は、巴は義仲と恋仲だったと言われる。)巴は、この戦いの後、和田義盛という武士の妻となり、91歳まで生きたと言われる。ちなみに、兼平は義仲討ち死にの直後、自害した。


義仲死後の影響

義仲の死後、頼朝は勢力を伸ばしていく。義仲は京で乱暴を働き、民衆の人望が低かった。だから、頼朝は、「乱暴者を討ち取った者」として、人望も厚かった。この後、頼朝は平氏を滅ぼし、義経や奥州藤原氏ら反対勢力を滅ぼし、幕府を開いた。義仲は、頼朝が勢いづくもととなったのではないだろうか。

明智光秀の生涯

明智光秀(1527?~1582?)は織田信長(1534~1582)に仕え、本能寺の変(1582年6月2日)で信長を討ち、その後、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に山崎の戦(1582年6月13日)で敗れ、落ち武者狩りで殺されたと言われる、「謀反人」、「三日天下」などのあだ名で知られる戦国武将です。(実際、6月2日に本能寺の変を起こしてから11日後に山崎の戦に敗れています。「三日天下」のあだ名で知られていますが、実は11日天下です。)しかし、本能寺の変を起こす前は、かなりの愛妻家だったり、自分の領国に善政を敷いていたなど、民衆には「いい人」として知られていました。

光秀の妻  妻木煕子

光秀とその妻 妻木煕子は、おしどり夫婦として評判になるほど仲がいい夫婦でした。例えば、こんな話があります。戦国時代には、武士がそれぞれの武士友達の家によって戦いや作戦などの話をする、という習慣がありました。それが光秀の番になった時、光秀の家は貧乏でした。そこに煕子が、お金を差し出してきました。実は、煕子は女の命とも言える自分の髪を切り、それを売ったのでした。このお金のおかげで、光秀は、お客を招く事ができたのでした。また、煕子は光秀と結婚する前に、あばたという病気にかかり、その痕が顔に残ってしまいました。「この顔では光秀様と結婚する事ができない」と感じた煕子の父は、煕子の姉を光秀と結婚させようとしますが、光秀は、「煕子様とでなければ、私は結婚しません。顔に何かがあろうとも、私の心が揺らぐ事はありません。」と言い、めでたく煕子と結婚しました。

このような話があるように、光秀と煕子はとても仲が良い夫婦でした。私もこのような結婚生活を築き上げたいです。うらやましい限りです…。

光秀は山崎で死なず、家康に近づき、107歳まで生きていた!?

 1582年6月13日、光秀は山崎の地に敗れました。実は、光秀は山崎では死なず、徳川家康に近づき、僧侶としてその後の人生を過ごした、という説があります。その僧侶の名は南光坊天海、戦国通の人は分かるでしょう、「黒衣の宰相」として、家康を日光に埋葬させた張本人です。光秀は山崎の戦いで敗れましたが、12騎の護衛に囲まれていました。その真ん中にいた光秀だけが殺されたという話はおかしいです。その後、人目を隠れて家康の元へ行き、南光坊天海として、明智光秀ではなしえなかった「天下を動かす」という夢を叶えた、といいます。

私から見た光秀の印象

 私が初めて信長の本を読んだ時、本能寺の変の場面を見た時は、ショックを受けてしまって、しばらくその本を読む時は本能寺の場面を抜かして読む有様でした。その時、私は光秀を恨みました。がっかりしました。しかし、光秀が山崎で消えてしまわなければどうなったでしょう。秀吉の天下も家康の天下もならなかったかも知れません。その時から、光秀に対していい印象を持つようになりました。「もし、光秀が本能寺の変を起こさなかったら、信長がヨーロッパに戦いをしかけて世界大戦を起こしたかも…。」と想像もしました。「光秀は結構いい人なのかな。」と思ってから、光秀の事が好きになりました。光秀が本能寺の変を起こして天下を取ろうとした、という考えは否めません。ですが、光秀は信長の天下の先を見抜き、天下を救おうとしたのかもしれません。