red8のブログ

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長男Kの文章力向上の為、同級生に説明する記事を書くという設定でupします。現在知っている知識・図書室で調べられる情報を元にした内容なので間違いや足りない所もあるかと思いますが「詳しく正しく」ではなく「文章力向上」が目的なので、そこはご容赦くださいm(__)m

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天皇に忠義を誓い続けた源氏の一族 源頼政



頼政は、同じ源氏でも頼朝や義経の河内源氏(前九年の役、後三年の役で活躍した義家の血筋)とは違う摂津源氏(坂田金時らと共に鬼退治をした頼光の血筋)の祖である頼光から数えて5代目である。

摂津源氏は大阪府西部と兵庫県南部を本拠地としている事から、朝廷・公家との交流があり、また頼政も朝廷に、鳥羽上皇から頼りになる武士として名を挙げられるほど一生懸命仕えた。

だから、頼政は「源氏の一族」よりかは「朝廷につかえる武士」と言った方が良いかもしれない。


1156年に皇族・藤原氏の争いから発展した保元の乱が勃発すると、頼政は源義朝や平清盛らと共に後白河天皇方に味方して、崇徳上皇方を破る。

だが、1159年に義朝が保元の乱後の恩賞への不満から藤原信頼と結んで平治の乱を起こして後白河上皇と二条天皇を幽閉すると頼政は義朝に味方するが、清盛が上皇と天皇を取り戻すと義朝と藤原信頼は賊軍となってしまう。そのため頼政は、義朝軍を見限って清盛方に味方した。

その後に京の六条河原で義朝と戦った時、「源氏であるにもかかわらず兵士に味方したのを恥ずかしく感じないのか」と言われたのに対し、「天皇に弓引くお前らはもう賊軍ではないか」と追い返した。

結果、頼政が味方した平氏方の勝利に終わり、義朝は家来であった長田忠致に暗殺、信頼は斬首される。

頼政は1178年に従三位に任じられるのであった。これは、清盛が強く推薦したからであった。


しかし、1179年に清盛が後白河法皇を拉致すると、頼政はそれに反発するように出家する。そして1180年に清盛が孫の安徳天皇を即位させると、頼政は天皇になれなくなった以仁王と共に打倒平氏の兵を挙げる。頼政らが挙兵するのは早過ぎた。

以仁王の乱が勃発したのは5月。それに対し伊豆で頼朝が北条氏とともに挙兵したのが817日であった。

あと3ヶ月早ければ、この計画は成功したかもしれない。しかし、平氏の兵力の前に京の宇治で敗れ、頼政は自害。享年77。以仁王は矢に当たって死んだ。30歳であった。

しかし、頼政の行為が全て無駄であったかというと、そうでもない。頼政が以仁王に書かせた「以仁王の令旨」は頼朝や義経、木曽義仲に渡り、平氏を滅ぼすきっかけとなったのだ。

頼政は若い頃から天皇に仕え続けていた。だから、頼政は天皇を利用して権力を握った清盛が許せなかったのだろう。

そして、そのせいで天皇になれなかった以仁王に同情したのだろう。

 



コラム 文武両道だった頼政



頼政は優れた武人であった。

これは伝説だが、近衛天皇(在位11411155)の時代に現れた妖怪・鵺(ぬえ、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎の怪物)を一矢で退治している。また、二条天皇(在位11581165)の時代に現れた鵺も退治している。

そして、頼政は歌人であった。頼政は自分の歌を集めた歌集である「源三位歌集」を編集している。辞世の歌は、「埋もれ木の花咲く事も無かりしに身のなるはてぞ悲しかりける」(語訳:花が咲く事のない埋もれた人生だった。悲しい事だ)である。

戦国1のダメ主君 一条兼定

 一条兼定は、名門一条家の子として生まれた。兼定の先祖は関白一条教房で、応仁の乱の頃に土佐の中村へと遁れて公家大名となり、その地で巨財を蓄えて、中村の地を立派な商業都市とした。その一条家中興の祖の教房から5世の兼定は、6歳で家を継いだが、幼い為伯父の康政が後見したという。その後成人して伊予守護の宇都宮家の女を娶ったが、離別して豊後の大友宗麟の娘を娶った。兼定は、かなりな暴君だったらしく、「人の意見を聞かず、日夜酒宴を催し、男色女色を好み、山河に猟などをする」事がほとんどだったという。

そんな兼定のダメ主君ぶりをにおわすエピソードが1つ。領内にいた雪という女が美人だという噂を聞くや否や、そこを訪れてしまった。これではただの女たらしなのだが、そして、接待に出た雪の美容に心うちふるえ手がふるえ、盃の酒を膝にこぼしてしまった。それを見た家老の土屋宗珊が、「見苦しいですよ、気を付けて下さい。」と忠告すると、それが兼定の勘気を煽り、忠臣を殺してしまった。

これに絶望した一条殿衆と呼ばれる家臣衆は、長宗我部氏がけしかけた事もあり、兼定を追放してしまった。兼定は、岳父大友宗麟の下でキリシタンの洗礼を受けた。そして大友氏の援助もあり土佐へ侵攻。兼定はイエズス会に土地を寄進して学校を建てさせるなどをしたのだが、これを嫌う長宗我部元地下に攻められ敗北、そして戸島に隠れ住むうち、元親の謀略によって家臣に殺される事になった。43歳の一生であった。

僕から兼定を見て

兼定がこのような障害を送ってしまったのも、「人の意見を聞かず、日夜酒宴を催し、男色女色を好み、山河に猟などをしに行く」ことがあったり、民を忘れて暴政を敷き、自分の好きな事にばっかり逃げていたからであろう。僕は、兼定のような人にはなりたくは無いな、と思った。

コラム 名門の大名

兼定のような名門の家に生まれた大名の中には、悲劇的な道を歩いて行った大名が多い。ここでは、武田勝頼、今川義元、三好長慶の三名を紹介したい。

武田勝頼…勝頼は、「風林火山」で知られる武田信玄の息子だ。信玄の死後、うまくまとまらない家臣団を引き連れて長篠の合戦に臨んだが大敗、その後は緩やかな没落の道を歩んで行き、1582年3月に天目山で自害した。武田氏は、甲斐源氏の血を引く名門。

今川義元…義元は、足利将軍家の血を引く今川家の当主。家督争いに勝利した義元は、隣国とたびたび争い、ついに1560年に上洛を目指す。しかし、桶狭間の地で織田信長の攻撃を受け、絶命。

三好長慶…長慶は、清和源氏の一族の血を引いている。長慶は、父の仇の細川晴元と長年争い、ついには近畿周辺の10カ国に及ぶ三好政権を築き上げる。しかし、その後は相次ぐ有能な弟や息子の死などに悩まされ、ついには重臣の松永久秀に実権を奪われてしまう。そして、長慶の死後、中央に進出してきた信長の手により、跡を継いだ養子の義継は滅ぼされてしまう

下剋上の象徴 北条早雲

 戦国時代の初期、政治の本拠地は京都にあり、目の届かない関東地方を、鎌倉公方という関東の政治拠点であった鎌倉の長官に任せていた。ところが、その鎌倉公方は関東で好き勝手をやっており、幕府に対抗する動きを見せた。これに起こった幕府は、鎌倉公方を追放、代わりの長官を鎌倉に派遣した。だが、関東には争いが絶えず、新しい長官は鎌倉に入れずに仕方なく伊豆の堀越に拠点を置いた。これが堀越公方の始まりだった。

 早雲は、そんな時代の真っただ中に室町幕府の家来である伊勢家の子に生まれた。早雲は始め「伊勢新九郎」と名のっていた。早雲の前半生や生い立ちには不明な部分が多い。早雲が駿河の今川家の内部分裂を解決した頃、堀越公方は足利茶々丸という子供だった。早雲は下剋上の波に乗ってその茶々丸を謀略を用いて追放、その勢いで伊豆を平定し、さらには相模へと領地を拡大していった。その一方で早雲は自分の領地に善政を敷いた。農民の税を軽くし、部下には節約を心掛けさせた。この後の2代当主氏綱の時に制定された法律の原型を作ったのも早雲だった。関東に1大帝国を築いた基礎を作った後、88歳の大往生を遂げた。


北条早雲の人生

 北条早雲は、この戦国時代に当たり前のように通っていた「下克上」の風に乗って北条家の領地を拡大していった。早雲は、戦国の世の流れを熟知し、その流れに乗って領地を広げた戦国時代の代表と言えるのではないだろうか。


コラム なんか変だぞ 武将の名前

 北条早雲の本名は、「伊勢新九郎盛時」と言って、「北条」の姓を名乗ったのはその息子の氏綱の代から。だから、戦国時代に早雲に向かって「北条早雲様」と呼ばれた事は1度も無かっただろう。(なぜ「北条早雲」という名前になったのだろうか。)

 武田信玄の臣下の一人で、信玄の衆道の相手だった高坂弾正も名前が間違っている。彼が1番長く使っていた姓は「春日」で、信玄は「高坂弾正」と呼んでいないかと思う。(私も名前が「高坂弾正」と思っていたのでびっくりした。)

九州に返り咲いた西国無双の武将 立花宗茂

 宗茂は、大友氏の重臣高橋紹運の長男として生まれた。生年は分かっていない。高橋紹運は、立花道雪と並び「風神雷神」と呼ばれた猛将。

宗茂は、秋月氏との戦いで初陣ながら戦功を挙げた。この戦いで「雷神」こと立花道雪(道雪は雷に打たれて半身不随になっていたが、輿の上で指揮を取ったという生涯を戦場で過ごした猛将)が養子に欲しがった。道雪はその求めに首を縦に振り、道雪の娘誾千代と結婚した。そして、それまで名乗っていた「高橋」姓を捨て、新たに「立花」姓を名乗ったのであった。

1585年に道雪が死ぬと、宗茂は筑前(福岡県)立花城主となり、父と大友氏の筑前を守るのであった。1586年、勢力を強くした島津家が北上、父紹運は兵500で奮戦するも衆寡敵せず、岩屋城の兵500と共に玉砕、岩屋の苔と化した。そして宗茂の弟直次も降伏してしまう。宗茂らも島津家の大軍に苦戦させられるが、豊臣家の九州攻めまで耐え抜いた。秀吉からは、「宗茂は西国1番の勇士よ!」と誉めたたえられた。そして、その功績から筑後3郡を与えられ、柳川城主となるのであった。

1598年に秀吉が死ぬと、その2年後に関ヶ原の戦いが起こる。宗茂は西軍に参加するも、京極高次の守る大津城を攻めるがその間に西軍が敗れてしまい、宗茂は帰国する。だが、帰った宗茂を待っていたのは、また戦いだった。東軍の加藤清正、鍋島直茂が攻めてきたのだ。宗茂は、この東軍勢に降伏し、領地を取り上げられ、浪人となる。

 1603年、宗茂は徳川家康に取り立てられ、1万石の大名になった。そして、2度の大阪の陣で徳川方として活躍。1620年には筑後3郡が与えられ、立花氏の復興を成し遂げたのだった。そして、1637年に隠居し、1645年に亡くなった。

 宗茂は、戦国時代に巡ってきたチャンスを自分のものにし、立花氏の復興を成し遂げた。宗茂は、チャンスを自分のプラスに変える事が上手かったんだな、と思った。



コラム 九州の軍師達

 九州には、いろいろな軍師がいた。その中でもぼくは、豊臣氏の黒田官兵衛、大友氏の角隈石宗と立花道雪を紹介しようと思う。


黒田官兵衛…官兵衛は、秀吉に仕えた稀代の天才である。彼は、本能寺の変の時、その時に毛利征伐に当たっていた秀吉に、「今こそ天下取りの好機です。」と耳打ちしたという。秀吉は、その才能に恐れを感じ、天下統一時には、筑前に封じられたという。そして、秀吉は死の直前に、「私が死んだあと、天下を治めるのは徳川家康か黒田官兵衛だろう。」とつぶやいた。官兵衛はそこまでの才能を持っていたと考えられる。


角隈石宗…石宗は、「天才軍師」の言葉よりも、「悲劇の軍師」という言葉の方が似合っているだろう。彼は、主君・宗麟の軍師を務めていて、立花道雪を弟子に持っていた。宗麟が日向遠征に行くのを止めたが聞き入れられず、絶望した石宗は自分の秘伝の書を火中に投げ込み遠征に同行、耳川の戦いで大友軍は大敗、石宗は討ち死にした。宗麟は、石宗の言葉を聞きいれていれば、もしかすると九州全土を我がものにしたかもしれない。


立花道雪…道雪は、大友家臣で、ある日に雷を落とされて歩行不能になった(道雪がその時に雷神を斬ったから、死は免れたという)。だが、彼は常に輿に乗って先陣を務め、「鬼道雪」、「雷神」の異名をほしいままにした、戦国時代の中の特に強かった武将の中でも12を争う大友家中随一の猛将である。また、秀吉に「西国無双」と絶賛された宗茂の養父でもある。

鎌倉幕府の執権 北条時政

 時政は、1138年に伊豆の豪族の北条時方の子として生まれた。時政の人生の転機は、1160年に訪れる。平治の乱で敗れた頼朝が伊豆に流されてきて、時政はこの監視役を命じられたのだ。だが、娘の政子が頼朝と恋に落ちてしまい、一時はこの2人の結婚に反対するが、結局はこの2人の結婚を認めている。一一八〇年に「平家を討て。」という内容の以仁王の令旨が頼朝のもとへ届くと、頼朝は挙兵し、時政もこれに味方する。頼朝軍は、平家方の山木兼隆を討ち取ったものの、石橋山の戦いで敗北。頼朝が態勢を整えている間、時政は息子の義時と、甲斐源氏(武田氏、戦国を代表する武将の1人の武田信玄の先祖と伝えられている)を味方につけている。頼朝が平家を滅ぼし、幕府を開けたのも、この甲斐源氏の協力あってこそ、と言える。その後、時政は頼朝と鎌倉に留まり、政治を助けている。1199年、頼朝が死去すると、時政は幕府内の立場を固めるため、1203年に対立する比企能員を追い落とし、さらに頼家を追放した。そして、第3代将軍に実朝を立てると、大江広元(戦国大名の毛利家の先祖といわれる)と並んで政所別当(長官)になり、(執権)と呼ばれた。1205年には畠山重忠親子を殺害し、北条家の立場を強化するが、その年に後継者の問題で子供の義時と政子と対立、出家に追い込まれた上に伊豆に追放される。そして、1215年にその地で没した。

 時政は、知謀の限りを尽くして、敵対する者を殺したりして北条家の立場を強化したが、最後は自分の子供に追放されてその地で死んでしまった。時政の人生には、「因果応報」という言葉が一番合っているのではないか、と思った。


頼朝死去の真実

 頼朝は、鎌倉幕府の創始者だ。だが、そこまでの道には数々の犠牲者がいた。義経、範頼を始め平家の方々、大庭景親、山木兼隆、同じ源氏一門の義仲、奥州藤原氏、exc,exc…。平家の人たちなどは頼朝に敵対したから仕方がないとして、義経や範頼らは頼朝に尽くしてきたはずだ。それを殺したり死に追いやったりしたら、頼朝挙兵時から付き添ってきた北条時政は恐怖を感じたはずだ。ならば、「やられる前にやってやる」という思いが強くなって、暗殺まで行きついたとしても何ら不思議ではない。いずれにしても、頼朝死去の謎は今でも分かってはいない。