天皇に忠義を誓い続けた源氏の一族 源頼政
頼政は、同じ源氏でも頼朝や義経の河内源氏(前九年の役、後三年の役で活躍した義家の血筋)とは違う摂津源氏(坂田金時らと共に鬼退治をした頼光の血筋)の祖である頼光から数えて5代目である。
摂津源氏は大阪府西部と兵庫県南部を本拠地としている事から、朝廷・公家との交流があり、また頼政も朝廷に、鳥羽上皇から頼りになる武士として名を挙げられるほど一生懸命仕えた。
だから、頼政は「源氏の一族」よりかは「朝廷につかえる武士」と言った方が良いかもしれない。
1156年に皇族・藤原氏の争いから発展した保元の乱が勃発すると、頼政は源義朝や平清盛らと共に後白河天皇方に味方して、崇徳上皇方を破る。
だが、1159年に義朝が保元の乱後の恩賞への不満から藤原信頼と結んで平治の乱を起こして後白河上皇と二条天皇を幽閉すると頼政は義朝に味方するが、清盛が上皇と天皇を取り戻すと義朝と藤原信頼は賊軍となってしまう。そのため頼政は、義朝軍を見限って清盛方に味方した。
その後に京の六条河原で義朝と戦った時、「源氏であるにもかかわらず兵士に味方したのを恥ずかしく感じないのか」と言われたのに対し、「天皇に弓引くお前らはもう賊軍ではないか」と追い返した。
結果、頼政が味方した平氏方の勝利に終わり、義朝は家来であった長田忠致に暗殺、信頼は斬首される。
頼政は1178年に従三位に任じられるのであった。これは、清盛が強く推薦したからであった。
しかし、1179年に清盛が後白河法皇を拉致すると、頼政はそれに反発するように出家する。そして1180年に清盛が孫の安徳天皇を即位させると、頼政は天皇になれなくなった以仁王と共に打倒平氏の兵を挙げる。頼政らが挙兵するのは早過ぎた。
以仁王の乱が勃発したのは5月。それに対し伊豆で頼朝が北条氏とともに挙兵したのが8月17日であった。
あと3ヶ月早ければ、この計画は成功したかもしれない。しかし、平氏の兵力の前に京の宇治で敗れ、頼政は自害。享年77。以仁王は矢に当たって死んだ。30歳であった。
しかし、頼政の行為が全て無駄であったかというと、そうでもない。頼政が以仁王に書かせた「以仁王の令旨」は頼朝や義経、木曽義仲に渡り、平氏を滅ぼすきっかけとなったのだ。
頼政は若い頃から天皇に仕え続けていた。だから、頼政は天皇を利用して権力を握った清盛が許せなかったのだろう。
そして、そのせいで天皇になれなかった以仁王に同情したのだろう。
コラム 文武両道だった頼政
頼政は優れた武人であった。
これは伝説だが、近衛天皇(在位1141~1155年)の時代に現れた妖怪・鵺(ぬえ、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎の怪物)を一矢で退治している。また、二条天皇(在位1158~1165年)の時代に現れた鵺も退治している。
そして、頼政は歌人であった。頼政は自分の歌を集めた歌集である「源三位歌集」を編集している。辞世の歌は、「埋もれ木の花咲く事も無かりしに身のなるはてぞ悲しかりける」(語訳:花が咲く事のない埋もれた人生だった。悲しい事だ)である。
