崇徳上皇 | red8のブログ

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長男Kの文章力向上の為、同級生に説明する記事を書くという設定でupします。現在知っている知識・図書室で調べられる情報を元にした内容なので間違いや足りない所もあるかと思いますが「詳しく正しく」ではなく「文章力向上」が目的なので、そこはご容赦くださいm(__)m

怨霊となった悲劇の天皇  崇徳天皇

 鳥羽天皇の第1皇子として生まれた崇徳天皇は、曾祖父の白河法皇の強い希望でわずか5歳で皇太子になり、同じ年に鳥羽天皇から天皇の位を譲位され、第75代天皇となった。

 1129年、崇徳11歳の時に当時関白であった藤原忠通の娘を后とする。だが、その后との間には子は儲けられず、側室との間に子を儲けてしまう。これで忠通は天皇の外祖父になる事ができなくなってしまい、崇徳を恨む事になってしまう。その年に白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇が院政を引き継ぐことになる。鳥羽上皇は崇徳を嫌っており、その時に鳥羽上皇の寵愛を受けていた后の美福門院の間に生まれた体仁親王(のちの近衛天皇)を皇位につけたかった。実は、崇徳は白河法皇と鳥羽の后との間に孕んだ不義の子。鳥羽にしてみれば、祖父が自分の后との間に孕ませた白河法皇の子であった。鳥羽はその事を知っていた。

1141年、崇徳は突然鳥羽から譲位を迫られる。崇徳はこの圧力に屈し、体仁に譲位した。崇徳は上皇にはなったものの、体仁は自分の弟。上皇がわが子を補佐する院政を敷くのは鳥羽であり、崇徳が院政を敷く事はできなかった。

1155年に近衛天皇となっていた体仁が崩御し、崇徳はわが子の重仁を天皇の座につけようとするが、美福門院が推す雅仁親王(のちの後白河天皇)が即位。さらに雅仁の子である守仁親王(のちの二条天皇)が皇太子になったため、以後、崇徳が院政を敷く事は無くなった。

その後の1556年に鳥羽が亡くなると忠通と対立していた弟の頼長と手を組み保元の乱を起こす。だが、乱に敗れた崇徳は讃岐(今の香川県)に流され、そして二度と京の土を踏むことなくその地で世を恨みながら一生を終えた。46年の父に振り回された悲劇の生涯であった。


その後の影響

 保元の乱の後、友軍であった平清盛と源義朝が対立、平治の乱を起こす。結果は平氏軍が勝利。清盛は異例の出世街道を昇っていく。崇徳が保元の乱を起こした事は、間接的に清盛が勢いづく原因となったのではないだろうか。


コラム  恐怖!崇徳上皇の呪い

 保元の乱に敗れ、讃岐に流された崇徳は仏教に傾倒。自分が極楽浄土に行けるように長い歳月をかけて写経をした。崇徳はその写経を朝廷に差しだすが、朝廷の人々はこのお経に呪いがかけられているのではないかと疑い、これを崇徳に返してしまう。崇徳はあくまで流罪の身であり、そんな人が写経をして、そのお経を朝廷に送ったのだから疑いを持つのも無理はない。だが、これにブチ切れた崇徳は、自分の舌を食いちぎってその血でその写経にこう書いた。

「我、日本国の大悪魔にならん」、「この経文を魔道に回向する」

それ以来、崇徳は髪も伸ばし爪も伸ばして、「生きながら天狗の姿」となった崇徳はその地で一生を終えた。崇徳の死骸は白峰山の山頂で荼毘に付された。その日は強い北風が吹いていたにもかかわらず、その煙は京の方角になびいていったという。

以後、朝廷の付近では異変が生じる。まずは皇位についていた二条天皇が急死。さらには鹿ケ谷の陰謀、延暦寺の衆徒の強訴が続き、朝廷に深いかかわりを持つ建物が次々に焼失。そして、崇徳を讃岐に流した張本人の後白河もとうとう病に倒れる。それらの禍はすべて崇徳の仕業と思われ、後白河は白峰山の山頂に広大な寺院を建立する。だが、こんな事で日本国の大悪魔が許してくれるはずも無く、その翌年に後白河は死去。以来、崇徳は天皇家を呪う最強の怨霊として恐れられるようになった。

その恐れは、崇徳が生きた源平の時代よりも遠く離れた幕末の時代でも、即位した明治天皇がわざわざ崇徳の霊に陳謝するために白峰山の山頂に勅使を送って来るほどだった。