「真っ赤なバラ」
僕が小学生の2年生か3年生の頃だったと思う。
テレビの歌番組では“バラが咲いた♪バラが咲いた♪真っ赤なバラが…♪♪”・・・
とマイク眞木が毎日の様に「バラが咲いた」を歌っていた。この曲は知らぬものはいない程大ヒットした曲である。
・・・当時、。僕らの身の回りにバラが咲いていただろうか?
・・父が勤める電力会社の社宅(鉄筋コンクリートの4階建てのアパート)にはエレベーターはなく、狭い階段でよく転んでいたのを覚えている。
部屋は3DKだったと思う。小さなダイニングキッチンに居間兼両親の寝室と子供部屋が2つだった。・・・アパートは皆、同じ構造だった。
醤油や塩を切らすと上下階、隣と気軽に行い交い調達していた。返す必要がない貸し借りだった。・・・
特に下の階の家族とは両親も大変仲が良く、こちらは男二人兄弟で、向こうは女二人姉妹だったので実の父親よりも下の階のおじさんに可愛がられた。また、次男の僕と次女の幼馴染は初恋の相手でもあり、将来は結婚するのではないかと、僕らよりもお互いの両親は思って・・・祈っていたのではないだろうか?・・・
昼前に起きて、昨日残った冷飯を茶碗に盛り、納豆をのせ、永谷園のお茶漬けを振りかけ熱い番茶を注いで食すのが日曜日の定番だった。食べ終わると悪がき共を誘いあい、アパートの前の公園に一目散に駆け出し目指す。
友達達と大きな声を出し合いながら陽が沈み真っ暗になるまで泥で汚れて真っ黒になるまで遊んだ。・・・ベランダから叫ぶ母親たちの「ご飯!」という声に、ひとり、また一人家路について、公園は誰もいなくなった。
僕の周りは庶民で溢れていた。一億総中流時代の始まりだった。家電三種の神器に御三家の歌手、電話機の取り付けは順番待ちの時代。カラー放送にはカラー放送中とテロップが流れていた。・・・右肩上がりの日本経済、年功序列に終身雇用で頑張るお父さんたち・・・
僕の近所にバラは咲いていただろうか?・・・
そういえば、小学校のクラスの同級生に某国立大学の医学部の教授の娘がいた。彼女は誰もが憧れるクラスのマドンナ、。三つ編みにした長い髪を解くと女の色気が漂っていた。・・・高台に石垣の上にフェンンスを廻らした洋館に住んでいた。…そのフェンスには赤いバラが咲き乱れていた・・・
僕の家の庭の隅に小さな赤いバラが咲いた。・・・可憐で美しい。
世の中はあの頃とは様変わりした。・・・もう一度、「バラが咲いた」の曲を聴いてみたくなった。