「燻し銀の人生」 | 「バックパッカーがH・Ⅰ・Sの役員になった奇跡」小さな会社の未来の創り方

「バックパッカーがH・Ⅰ・Sの役員になった奇跡」小さな会社の未来の創り方

出来ない事はやらないことだとHIS創業者「澤田秀雄」氏から学んだ。ベンチャー魂と自ら経験した多くの失敗が成長の奇跡を創る。伝える事よりも伝わること!直ぐに実践したくなる、熱き魂に触れてください。

「燻し銀の人生」


 寡黙に生きてきたのだと思う。4月25日に82歳を迎えた父、長い人生の中で幾度となく悔しい思いをしてきた事だろう。僕の父になる前、・・・僕が生まれる前の事はよくは知らない。昔、酒を飲んだ席で語っていた言葉をつなぎ合わせると、高等中学を卒業した後、自ら海軍の士官学校に入学、卒業後、青年将校(少尉)として、水上飛行機乗りになったと聞いた。もう少し、戦争が長引けば、特攻隊の候補だったとも聞いた。幸運にも生きているときに終戦を迎えたのだ。・・・父の実家では玉音放送を聞いたのだろう。・・・復帰後、地元の大学に入学、卒業後、電力会社に入社、約40年近く実直な経理マンとしてサラリーマン生活を過ごした。


 細身のスラリとした父は子供の頃は、とても怖かった。軍隊上がりである。敵うわけがない。アパートの小さな間取りにも父の居場所が明確にあり、留守の時にも近寄りがたかった。それだけ父、親父としての存在感があったのだ。・・・小学生までは、怒られていた記憶しかないのだ。だから嫌いだった。出張でいない時が凄く嬉しかった。・・・中学、高校は徹底的に親父に反抗した。家族崩壊の危機まで招く恐れがあったかもしれない。その時の心情を思うと、本当に申し訳なく思うと同時に、恥ずべき自分の当時の姿を殴って遣りたくなる。・・・サラリーマン人生として父は如何だったのだろう。もう少し出世、役員になりたかったのだろうか?聞いたことはない。若いときは気性が激しく部下に対しても厳しかった聞く。でも、定年を迎えてからも、当時の同僚や部下の方々が何人も挨拶に来られるのは人望があったのだろう。厳しくも優しい上司だったのだと思う。

 62歳で完全に定年を迎えた後、何度も死の淵に立った。持病の心臓病でICU行きを経験している。今年の正月明けも2週間ほど入院をした。


 誕生日には仕事で実家に顔を出す事が出来なかったが、一本電話をした。普段なら母が最初に出るはずだが、珍しく父が受話器を取ったのだ。「おめでとう!・・・」/

「あぁー、有難う、。」・・・

 土曜日、出張で訪れた金沢で買った輪島塗の黒塗りの椀を誕生日のプレゼントに贈った。・・・目を細めて喜んでくれた。


 派手な事はなかった。黙々と家庭と会社を行き交う人生だったのかも知れない。僕が理由なき反抗を繰り返した中学から高校卒業までの6年間は母と共に苦しんだに違いない。悔しかったに違いない。その気持ちが理解できるようになった今だからこそ、もっと長生きして欲しいと思う。生きれる限り生きて欲しいと思う。



 輪島塗の黒い椀を見たとき、寡黙で筋肉質な父の姿が目に浮かんだ。余計な事も余分な事も嫌っていた、几帳面な父の姿が想い浮かんだのだ。

 母と共にこれからの人生を愉しんで生きて欲しい。母の誕生日には赤の輪島塗の椀を贈りたいと思っているよ。