「父の背中」 | 「バックパッカーがH・Ⅰ・Sの役員になった奇跡」小さな会社の未来の創り方

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出来ない事はやらないことだとHIS創業者「澤田秀雄」氏から学んだ。ベンチャー魂と自ら経験した多くの失敗が成長の奇跡を創る。伝える事よりも伝わること!直ぐに実践したくなる、熱き魂に触れてください。

「父の背中」


 先日、退院した父を見舞う為、実家を訪ねた。今は母と二人だけで住まう家、日本建築の木造の家は老人二人には広すぎるし、また、空間が多く寒く感じる。

 居間で寛ぐ父の背中をみた。久しぶりに父の後姿をまじまじと見た。こんなに小さくなっていたのかと驚いた。父は今年で82歳を迎える。幾度なく死線を彷徨ってきた男の背中が今は小さく丸くなっている。

 昭和元年生まれの父は中等学校を卒業後、士官学校に入り、卒業後、青年将校(少尉)として海軍に配属される。水上飛行機のパイロットして戦地を廻り、戦況が激しくなり特攻隊に再配属されるが、運よく飛行任命前に終戦を迎えた。復帰後、大学に入り卒業後、電力会社に入社する。その後、母とお見合いで結婚、九州各地の発電所を渡り歩き、僕が小学生になると同時に福岡に戻ってきた。ほどほどに出世もしただろうと思う。それが本人とって満足のいくものだったかは分からない。ただ、一度だけ、父の悔しがる姿を覚えている。僕が小学校の3年生位の頃である。久しぶりに飲んで荒れていた。確か、課長レースに敗れたのではないだろうか。誰かに負けたと叫んでいた様な気がする。

 気性の激しい父であった。兄はいつも激しく怒られていた。長男への期待とジレンマがあったのではないかと思う。・・・僕はいつも父から遠ざかっていた。怒られるのが嫌だったのと、次男なのかあんまり相手にされてないような感じだった。

 マイホーム主義ではない父も会社では62歳の定年まで、真面目に寡黙に仕事を遣ってきた。

 戦時中、父は軍隊で命を賭け任務を遂行、結婚後、直ぐに急性盲腸で危うく死線を越えそうになる。40歳の時には、魚つり中に磯から落ち、肋骨をおる重傷、50歳を超えると3回ほど、心臓病で倒れ救急車で運ばれICUに・・・一昨年も、去年も倒れICUで死線を彷徨った。今年は無事に自宅で正月を迎える事が出来、皆で喜んでいたが、その後、検査で異常がみつかり再入院、2週間程で退院して自宅に戻ってきたのだ。

 いつの間にか小さく丸くなっていた父の背中、性格も背中の様に丸く優しくなった。と言うよりは、もともと父は優しい愛情のある人だった。それを理解できなかったのは僕だったのだ。




小さく丸くなった背中を見ながら、僕は願った。「もっと長生きして下さい。僕がいっぱい心配をかけ、苦労させた分、遅れ馳せながら孝行したいです。だから、もっと長生きして下さい。」 父の小さな背中が返事をしたように見えた。