夢を見たプータロー時代 | 「バックパッカーがH・Ⅰ・Sの役員になった奇跡」小さな会社の未来の創り方

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出来ない事はやらないことだとHIS創業者「澤田秀雄」氏から学んだ。ベンチャー魂と自ら経験した多くの失敗が成長の奇跡を創る。伝える事よりも伝わること!直ぐに実践したくなる、熱き魂に触れてください。

「夢を見たプータロー時代」


高校を卒業して東京の専門学校に入った。理由は両親から早く自立したかった事。

もう一つは音楽の世界か写真の世界で生きていきたかったからだ。

東京は東長崎という西武池袋線沿線の庶民的な町に居を構えた。といっても、4畳半一間の共同トイレ、風呂なしの木造アパートだった。 部屋には小さなキッチンが付いていた。一口のガスコンロと30cm四方のシンクだ。小さな冷蔵庫を置くと一人がやっと入る事が出来るスペースだ。ここの扉は引き戸になっていて閉めると、隣の半間の押入れが開き、開けると押入れが閉まるというキッチンと押入れ共通の扉だった。 一階の共同玄関をすぐ入った角部屋が僕の城だった。 幸いに窓は西と南の2面にあった。光りが射し込み日中は明るいのだが、夕方は西日がきつ過ぎたし、冬になると立て付けの悪い木製枠に嵌め込みガラス窓の為、冷気が遠慮なく入り込み、寝酒に飲んだ水割りウィスキーの残りが翌朝は凍っていた。

そんな生活も楽しかった。「夢があった。」 福岡からの仕送りは家賃と食費と交通費で消えたので、アルバイトは夢のために精を出した。 池袋西口にあった東武デパート15Fにあった「ニュートーキョー」というレストランシアターでのステージでの音響と照明の仕事だ。夕方5時過ぎに学校が終わり新宿から池袋に移動。 仕事前に賄いが出る。11時に仕事が終わると又、賄いの食事が出る。貧乏学生にとって2度の食事つきは非常にありがたかった。 ステージには、これから売り出しのミュージシャンが中心だったが、週に1度は当時メジャーな歌手も出演していた。 彼らと仲良くなれるのと同時に好きな音楽の直ぐ傍にいれたのも幸せだった。 僕の悩みは贅沢だった。可能性は分からない。でも自分自身で選択の岐路を自由に決められる幸せは最高だった。 バイトは約1年間続けた。その間に僕の夢の道具が揃った。

 カメラだ! 当時プロカメラマンの多くが使っていた名機、ニコンF2フォトミックAのブラックの本体と標準レンズは当時は一番明るかったニッコールf1.2、55mmのレンズだ。 手に入れた時は飛び上がるほど嬉しかった。

それからというもの毎日、いつもカメラを持ち写真を撮って廻った。・・・ バイトの途中で誘われ入った音楽プロダクションを挫折して止め、プータロー生活に入った。定職に付くことなくバイトを繋ぐ繰り返しだ。

ポルトガルはポルトの街で撮影したもの。

・・・アメリカに留学しようと頑張って貯めた資金が100万近くあった。ある事があり留学は断念するしかなく、お金だけが残っていたのだ。「よし、アメリカが駄目ならヨーロッパに行こう!、カメラを持って」 僕は19歳の時、肉体労働で貯めたお金と愛機ニコンを持ってヨーロッパへ旅だった。

・・・音楽の世界ではプロダクション、レコード会社の契約プロモーター、写真の世界では1年足らずだが見よう見まねで建築写真や商業写真の仕事を受けた事もある。だが、実際は食えなかった。というよりプロにはなれなかった。途中数年間はイタリアを拠点に海外の放浪を繰り返した。帰国後、幾つものの仕事をバイト同然にしながら25歳まで年収は100万以下前後で何とか食いつないで来た。

前職の会社で20数年間サラリーマン生活を過ごした。自分なりにおらが村の頂点を目指した。だが、所詮、お山の大将だった。 今、目の前にある愛機。これが僕の夢のスタートだ。 カメラマンにはなれなかった。良いではないか。夢の達成は上手くいく事が前提ではない。むしろ上手くいかない事を積み重ね経験した事が夢の扉を開くのではないかと思っている。 したいことが夢なのだ!!出来る事は夢ではない。出来るとは「ちょっと」から始まる。次に「ほどほど」だ。上手くいけば「凄く」出来るかもしれない。 「凄く」は余裕がないよ。良いじゃないか「ほどほど」で、「ちょっと」でも出来たうちだよ。と思えるようになってきた。確かに仕事の内容は完全でないと許されないものが大多数であろう。 でも、自分の夢はちょっとから始めてみたらどうだろう。 僕の最初に住んだアパートのキッチンと半間の押入れは片方閉めたら片方が開いた。 閉めても開く、開いても閉まる。そんなもんだと思う。人生は上手くいく片方に上手くいかない片方があるのだ。 ・・・僕の見た夢。プータロー時代も満更ではなかった。