髙麗神社(埼玉県) | yampoo 御朱印集めの旅 

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御朱印を集める旅を始めました。

埼玉県日高市に鎮座されている髙麗(こま)神社にお参りしました。

近くには彼岸花(曼珠沙華)の群生で知られている巾着田があります。

髙麗神社の境内には、「天下大将軍」、「地下女将軍」と書かれたやや異様な感じの標柱があります。実は西武線髙麗駅の前にも同様の標柱があって、以前から「何だろう?」と気になっていました。調べてみたところ、韓国の村で良く見かけるチャンスン将軍標というもので、村の境界を表わすと同時に、厄災防除を願う守護神、道祖神のことだそうです。

ということで、この辺りは「髙麗」という名から推察できるように朝鮮半島と深い関わりのある地です。

 

髙麗神社の主祭神は高麗王若光です。

若光は666年に高句麗から日本(倭国)に遣わされた使節の一員でした。この使節の役割は当時、唐・新羅連合軍に圧迫を受けていた高句麗が日本に支援を求めようとしたものです。

しかしながら、668年に高句麗は滅亡したために、若光は帰国することが叶わず、そのまま日本に住み続けるわけですが、若光が高句麗の王族に連なるということで、朝廷は若光に「髙麗王」という姓を与えます。

その後、朝廷は武蔵国の中でも未開の地だった現在の埼玉県日高市あたりに新しく「髙麗郡」を設置し、高句麗からのいわば難民をこの地に一箇所に集めて住まわせ、開墾に当たらせたということらしいです。

 

6―7世紀の朝鮮半島は、高句麗、百済、新羅の3国が鼎立していました。

その中でも、百済が一番日本と親密な関係にあったわけですが、660年に唐・新羅の連合軍によって滅ぼされます。3年後、朝廷は半島における百済復興運動に呼応する形で、軍を派遣し百済救援に向かうのですが、「白村江の戦い」で唐・新羅軍に大敗を喫してしまいます。

そして、百済からは大量の難民が日本に押し寄せる結果となり、朝廷は摂津国の難波あたりに「百済郡」を設置します。

このように、朝廷は百済系渡来人を畿内に住まわせることを容認し厚遇しますが、一方で高句麗系渡来人に対しては辺鄙な武蔵野国に居住させるという差別を行っています。

ちなみに、数は限られていますが、何らかの理由で新羅からの移民も日本に来ていて、同じ武蔵国に新羅郡も設けています。

日本と密接な関係にあった百済系とそうではなかった高句麗系、新羅系の人達の間では対応の違いはあったものの、それぞれの国の名を冠する郡を設置したということは、少なくとも渡来人に対する拒否反応というのはあまり無く、現代の日本政府の移民政策とは随分違うような気がします。もちろん、当時は渡来人が持っている技術を日本の発展に活かそうという理由があったかとは思います。

 

先日、NHKの「日本人とは何者なのか」という番組を観ました。

従来の定説では、日本人のDNAはネイティブ・ジャパニーズとも言うべき縄文人と稲作を伝えて来た弥生人との間の2重構造だと思われていたのが、最近のゲノム解析技術の進歩によって、現代の日本人のDNAは縄文系や弥生系とは別に、第3の要素が大きく含まれているということが判明しました。そして、この第3の要素が含まれるようになってきたのは古墳時代(3世紀から7世紀くらいまで)の日本人からで、つまり古墳時代に大量の渡来人がやって来て混血が行われてきたことを意味します。

このように、古代日本は大移民国家で、おおらかに外国人を受け入れ共存共栄を図ったものと思われます。

 

1910年、日本は韓国を併合し、「日韓併合」は敗戦の年まで続きます。

戦前、髙麗神社は韓民族が日本に同化した良き例として、政治的に利用されたことがありました。そこには本来の「おおらかさ」という面が全くありません。

 

髙麗神社を参拝するにあたって、日本と朝鮮半島の歴史、そして「日本人とは何者か」を考える機会を与えてもらいました。