相州藤沢白旗神社(神奈川県) | yampoo 御朱印集めの旅 

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今年も早いもので「紅白歌合戦」の季節を迎えました。この紅白対抗というのは平氏の赤旗、源氏の白旗に由来しているものだと思うのですが、源氏に由縁のある白旗神社は東日本を中心に全国で70社ほどあるそうです。

そのなかでも、一番有名なのは神奈川県藤沢市に鎮座されている相州藤沢白旗神社ではないでしょうか?

もともとは、相模国一之宮である寒川神社の御祭神(寒川比古命)のみを祀ったお社だったのが、後に源義経を祀ることによって白旗神社に改称されました。

 

源頼朝による奥州平定の戦いのなかで、義経は平泉の衣川館で自害しました。そして、その首級は鎌倉の方へ届けられるのですが、またもや腰越に留め置かれ、和田義盛と梶原景時によって首実検されます。普通なら、その後丁重に埋葬されるはずなのですが、なんと義経の首は片瀬の海に棄てられたそうなんです。

それは、ちょっとやばくないですか?

そんなことをしたら、必ず祟られます。案の定、鎌倉御所の付近で様々な祟りの現象が起きたそうです。

棄てられた義経の首は潮にのって境川を遡り、現在の白旗神社付近に漂着しました。気が付いた里人が首をすくいあげ、井戸で洗い清めたところが「伝・源義経首洗井戸」で、白旗交差点の近くにあります。

鎌倉幕府は結局、義経を白旗大明神として祀ることを決めて、現在の白旗神社があります。

 

源頼朝という大政治家と源義経という大軍事家のコンビで、あっと言う間に平家は滅亡してしまいました。もし、義経という存在が無ければ、しばらくは西日本の平氏、東日本の源氏、そして奥州・藤原氏の日本版三国志の時代が続いていたかもしれません。

 

惜しむらくは、義経は頼朝が目指していた武士の世を作るというビジョンや達成するまでの手法を理解できていなかったことと、取り巻きの部下に政治的センスのあるブレーンが全くいなかったことです。

最終的に頼朝に反抗したと言えども、義経は平家を破った大功労者ですし、反抗した後は義経追捕の名目で、全国に惣追捕使の配置を朝廷に認めさせ、それがやがて守護・地頭となって鎌倉幕府による全国支配の体制に繋がるわけですから、義経はとことん鎌倉幕府に利用されたと言っても良いのではないでしょうか?

挙げ句の果てに、首級を海に棄てたというのが事実なら、何という仕打ちかなと思ってしまいます。

 

白旗神社の境内には、日本史に燦然たる輝きを与えた義経と、そして弁慶の像がありました。その像を見ながら、歴史の「if」をしばらく考えていました。